萌える東大闘争

というわけで、歴史系ネタの3つ目、今回は戦後日本を舞台にした安田講堂事件を取り扱ってみたいと思います。なお、最初に断っておきますが、このコンテンツは当時の状況を分かりやすく説明することが目的であり客観的、中立的立場で書くよう心がけています。また、当時の団体、個人を貶める意図は一切ありません。また、基本的には「史実を元にしたフィクション」であり、実在の人物、団体とは一切関係はありません。なお、登場人物は全て仮名となっております。


追記(1月16日「W本規夫」を追加)



なお、今回のコンテンツを作成するに当たり、以下の本、サイトをを資料として使用しています。


マルチメディア共産趣味者連合 中央委員会

全共闘時代用語の基礎知識
東大落城―安田講堂攻防七十二時間    佐々淳行
安田講堂 1968‐1969  島泰三


また、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。

 
眠りの園様
みかつう様

むすすだシステム様
ヨッち〜プロジェクト様
しろづくり様
バトロワ魂様
まこっちゃん記様
し〜くれっとも〜ど様


なお、豆知識として各派のヘルメット説明なども。

当時のヘルメットたち



萌える安田講堂  〜東大のいちばん長い日〜


1960年代後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。学園紛争は全国に拡大、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。その中で、国内最高峰の教育機関東京大学では医学部の登録医制度反対から始まった闘争が激化の一途を辿っていった。学生達は1968年3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。6月15日に医学部学生が安田講堂を再度占拠し、大学当局のO河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂バリケード封鎖された。その後、東大全学部の学生ストライキ、主要な建物多数の封鎖が行われ、O河内総長以下全学部長は退陣することになった。後任として法学部のK藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。日共系(民青)や学園平常化を求めるノンポリ学生とは交渉によりスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。 警視庁は8個機動隊4600、他方面機動隊、予備機動隊3900名を動員、1月18日より封鎖解除に取り掛かった。18日中に医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し、安田講堂を包囲したが、安田講堂への本格的な封鎖解除は学生の強力な抵抗のため、19日まで持ち越された。


全共闘とは?
全共闘は、はじめは各大学個別の問題を扱う組織・運動として結成されたが、その後大学当局の硬直した対応や政府や機動隊の介入を経験する中で、既存の政治・国家の体制全体を否定するようになり、最終的には大学解体をスローガンに、学生が大学を超えて連帯し日本帝国主義体制の打倒を目指す革命運動へと性質が変わっていった。1969年1月18日・19日の安田講堂攻防戦はそうした革命闘争の象徴となり、これ以後全共闘運動は全国の大学に波及したのであった。しかし、運動が大学を超えた革命闘争となり、その手法も過激化していくにつれ、それについていけない一般学生は徐々に脱落してゆき、全共闘新左翼各党派のセクト色が強くなっていった。1969年9月5日に日比谷野外音楽堂において結成された全国全共闘は、新左翼の献身で東大全共闘山本義隆は議長、日大全共闘秋田明大は副議長に就いた。この頃にはもはや当初のような自然発生的な組織・運動体とは大きく質を異にしていた。


主な登場人物(警察)


G藤田正晴 
安田講堂事件当時の警察庁長官安田講堂事件の他、後に「あさま山荘」事件の指揮も執ることになる。後に各内閣の副総理・法務大臣などを歴任し、「カミソリG藤田」、「日本のアンドロポフ」の異名を取った。


H野章 
安田講堂事件当時の「過激派」警視総監。当時絶頂期であった学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い、過激派にテロの標的にされる。護衛をつけようという進言に対しても、「駆逐艦駆逐艦を守ってどうする」と言って断った硬骨漢。また、敷石はがし作戦など、奇抜な作戦を立案することもあった。


S稲葉耕吉 
安田講堂事件当時の警視庁警備部長。安田講堂封鎖解除の指揮を取る。S々を警備課長に推薦したのはこの人らしい。後に警視総監、法務大臣を務める。警視総監時に1度、過去にも1度家に泥棒に入られている。


S々淳行 
安田講堂事件当時の警備第一課長。その際に、戦術的後退や挟撃作戦などの発案、隊員の受傷防止の為の個人防御装備の開発、警備車両の充実化など、後の機動隊の基礎を固め、また、連合赤軍あさま山荘事件で有名になった特型警備車「防弾装甲放水車」の配備に尽力した。後に初代内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長。「危機管理」の言葉を作った。当時はH野警視総監とG藤田警察長官の間で大変だったようだ。実は高所恐怖症らしい。


N島文穂 
安田講堂事件当時の本富士署署長。現場警備本部長として方面機動隊(常設部隊でないため、主に後方警戒配置とされる)の指揮を執る。


I川三郎 
警視庁第一機動隊長、安田講堂事件直前に本所署長から一機隊長へと呼び戻される。安田講堂事件では法文経一・二号館と列品館の攻略、神田地区の警備を担当。


M沢由之 
警視庁第二機動隊長。1968年の「新宿騒擾事件」の負傷にも怯まず各種警備に取り組む。安田講堂事件では法学研究室の攻略、神田地区の警備を担当。研究室の史料を守るために尽力。


K島賢一郎 
警視庁第三機動隊長。安田講堂事件では工学部三号館の攻略の後、神田地区の警備を担当、「神田カルチェラタン闘争」の規制にあたる。


I野定吉 
警視庁第四機動隊長。彼の率いる四機は「鬼の四機」と過激派に恐れられる。安田講堂事件では医学部、安田講堂の攻略を担当。


A柳敏夫 
警視庁第五機動隊長。日大紛争で部下を失い、進退伺いを提出するもS稲葉警備部長の慰留により決意を新たに部下の先頭に立って指揮を執る。安田講堂事件では理学部、安田講堂の攻略を担当。


M田美正 
警視庁第六機動隊長。上級職、いわゆるキャリアであるが、H野総監によって機動隊長に抜擢。安田講堂事件では医学部の攻略、東大の外周警備を担当。事件後、若くして世を去る。


I田勉 
警視庁第七機動隊長。上級職、いわゆるキャリアであるが、H野総監によって弱冠27歳で機動隊長に抜擢。安田講堂事件では一機と共に法文経一・二号館と列品館の攻略、後に安田講堂の攻略を担当。


S山賢司 
警視庁第八機動隊長。元は一機の特科車両隊の隊長で、八機も主に放水車、警備車両の運用を行う。主に各機動隊の「城攻め」の支援を担当。


A野政晴 
警視庁第八方面機動警邏隊長。安田講堂事件当時は神田地区に配備され、警備に当たるがゲバ学生1000人以上を相手に苦戦を強いられ、25パーセント以上の負傷率を出した。援軍の三機が来援するまで神田地区を守りぬいた。


警視庁機動隊


警察において、警備実施の中核部隊として治安警備及び災害警備等に当たる部隊。任務は、治安警備、災害警備、雑踏警備、警衛警護、集団警ら及び各種一斉取締りである。安田講堂封鎖解除には約8500名が動員、負傷者およそ600名を出した。彼らはこの後の反安保闘争の990日間をも戦いぬくことになる。


(番外)W本規夫 
独特の渋い声をもつ有名声優。大学卒業時にハラハラドキドキした仕事を求めて警視庁に応募。警察学校の後即座に特別予備機動隊に編入され、1968年の「新宿騒擾事件」に出動。安田講堂には出動しなかったらしい。(都内の警備には出動していたと思われる)


主な登場人物(大学関係者)


K藤一郎 
安田講堂事件時の東大総長代行、元法学部長。辞任したO河内総長に代わり、東大紛争に取り組む。代々木系民青、ノンポリ学生だけでなく全共闘側とも交渉を続ける。非常に強靭な神経の持ち主。



H野龍一 
安田講堂事件時の東大法学部長。東大紛争中のO河内総長、執行部の辞任に伴い、新執行部員となる。


M坊隆 
安田講堂事件時の東大工学部長。東大紛争中のO河内総長、執行部の辞任に伴い、新執行部員となる。


健太郎 
安田講堂事件時の東大文学部長。東大紛争中のO河内総長、執行部の辞任に伴い、新執行部員となる。1968年11月4日から11月12日まで全共闘に監禁される。しかし、彼は170余時間の軟禁状態の中でも学生の要求に屈するどころか逆に学生に議論を挑んでは次々と論破。後には学生の中から自由を拘束した形での団交を強要する全共闘を批判する意見まで出る始末であった。後日、雑誌などでは彼を讃える内容の全共闘学生の談話などが掲載され、「全共闘を負かした教授」として一躍知られることとなった。


O河内一男 
東大紛争勃発時の東大総長。学園紛争の激化に有効な手を打つことが出来ず、総長を辞任することになる。



主な登場人物(全共闘


Y本義隆 
東大全学共闘会議議長。 学生時代より秀才でならし、大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻していた。
Y本が当時の国内留学先だった京都大学基礎物理学研究所での研究生活を放り出して全共闘運動のため東京に舞い戻ったことに対し、所長のY川秀樹が悲嘆に暮れたという逸話もある。安田講堂陥落後警察の指名手配を受けるが、同年9月の全国全共闘連合結成大会の場に登場し警察当局に逮捕された。


I井澄 
安田講堂防衛隊長。東大紛争初期は卒業を控えていたこともあり、当初は積極的な関与を控えるつもりでいたが、紛争の発端が医学部(青医連処分)であったことと、学部生の中では最年長だったことから、最終的には中枢に近い立場になる。全共闘議長のY本義隆は、機動隊導入の直前に逮捕状が出たことと、機動隊導入後の組織防衛の観点から、東大構内から去ることとなった(本人は残留を希望していた)ため、I井が事実上学生側の現場責任者となった。後に復学をして、1970年に卒業、医師国家試験に合格する。また、1992年には国会議員に立候補し当選。


学生S 
安田講堂「本郷学生隊長」。東大理学部に在学中東大闘争に参加。1969年1月、安田講堂に篭城、懲役2年。後に安田講堂事件に関わる警察の主張に反論、著作を書く事になる。


学生紛争に参加した主なセクト反代々木系


革命的共産主義者同盟全国委員会中核派

日本の新左翼の中で最大の規模・勢力を持つ過激派集団。帝国主義の打破と反スターリン主義をスローガンとする。中核派はあらゆる反体制運動と連帯し、この運動の中で主体的な役割を担い、組織的にも拡大していった。
東大紛争当時でも反代々木系セクトの中で大きな位置を占めていた。


日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派革マル派

1963年2月、革命的共産主義者同盟全国委員会から当時、書記長・H多延嘉と路線対立していた議長・K田寛一らが分裂して結成された組織(H多らは中核派を形成)である。中核派があらゆる反体制運動と連帯し、理屈を抜きに街頭で機動隊と衝突するなど、テロ・ゲリラ等の直接行動を重視するのに対し、革マル派階級闘争至上主義であり、思想・理論の学習と組織の構築を目指し、それらの維持・拡大に向けた活動を重視している。安田講堂事件当時は法文経1・2号館を守っていたが、「勢力温存のため」機動隊突入前に脱出。これが原因となり、70年代以降中核派との内ゲバを繰り返し多数の死傷者を出す。


社会主義学生同盟社学同

社会主義学生同盟の略称。共産同(共産主義者同盟)の学生組織。通称BUND(ブント、俗な読みでは「ブンド」)。BUNDはドイツ語で同盟、連盟の意味。


全国反帝学生評議会連合(反帝学評)

社青同解放派のなかのラジカルな部分によって、昭和44年に結成された。中核派社学同とともに三派全学連を結成。「はんていがっぴょう」と読むこともあった。


共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派(ML派)

共産主義者同盟の分派の一つ。Mはマルクス、Lはレーニンをあらわし、マルクス・レーニン主義を標榜した。
が、その中国共産党寄りの路線から「毛沢東林彪派」とも揶揄された。密出国により幹部のH氏が1968年に開かれた中国共産党の九全大会に参加したとの噂が当時流れた。


統一社会主義者同盟フロント派(フロント)

構造改革派(構改派)の一つ。統一社会主義者同盟(統社同)フロント派の略称。


ノンセクト・ラジカル

全共闘時代に成立した新左翼系の活動家やグループの名称。どのセクトにも属さないが、ゲバルトでは活躍する。一般的に「黒ヘル」ともいっていたが、厳密には思想的にアナキズムを信奉しているのが黒ヘルで、ノンセクト・ラジカルは、党派に入り損ねたがチャンスがあれば暴れたい人達の小さなグループであった。組織は嫌いだが、過激なことは大好きというほとんど無責任な人達である。日本共産党日本民主青年同盟を強く批判するところに共通点があり、その点ではほかの新左翼諸派と変わりはない。


日大工兵隊 
日本大学の工学部左翼学生中心の集団。日大紛争などでバリケード封鎖のプロとして名を上げる。1月9日以降東大入りし、安田講堂バリケードを強化した。



主な登場人物・組織(代々木系、ノンポリ


M本顕治 
安田講堂事件当時の日本共産党委員長全共闘の主張する「大衆団交」を批判し、「大学の自治を内部から破壊するトロツキスト、分裂主義者の影響を学生運動から克服すること」という方針を打ち出した。当時共産党は党を挙げて東大紛争と取り組み、一般党員の支援も辞さずとの構えを見せている。


M崎学 
東大紛争当時の日本共産党「あかつき部隊」の指揮官。高校生徒会長時代に日本共産党に入党、早稲田大学第二法学部に入学後は共産党系組織ゲバルト隊長に就任するなど、組織的に活動した。後に自伝的小説を書いたり、政治活動をしたり色々やっているらしい。あと、某漫画家の本にもたびたび登場する。


日本民主青年同盟(民青)

日本共産党の下部学生組織。通称「日共=民青」。「日共=民青」と表記することが多かった。民青は通常、一般学生と同様のファッションをとることを信条としていたので、ほとんどヘルメットをかぶらず、ゲバ棒も持たなかった。だが、新左翼とのゲバルトのときは、やはりヘルメットをかぶったときもあり、その際は、ヘルメットの色はライトブルーか、ライトイエローが多かった。ヘルメットの横に「全学連」の黒文字があるものもあった。東大紛争時は比較的穏健派で、機動隊とぶつかることはほとんどなく、後にスト中止にも動いている。しかし、全共闘とぶつかる際は激しいゲバ闘争を行った。


あかつき部隊

民青の労働者を中核とする急襲部隊。早朝に反日共系学生が立てこもる学生会館などを襲うので、この名がついた。ちなみに、日本共産党系の下部組織などには「あかつき印刷」など“あかつき”を冠したものが多かった。あかつき部隊は最も根性があって、反日共系学生からは恐れられていた。ちなみに、二番目に強いのが、中核派革マル派動労部隊だった。東大紛争時にも出動したらしい。


M村信孝 
東大紛争当時のノンポリ「学園正常化委員会」のリーダーの一人。1月9日の民青、全共闘の乱闘に巻き込まれ、K藤代行に機動隊出動を要請させるきっかけとなった。後に与党衆議院議員


ノンポリ学生たち

ノンポリは、英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。元は1960-70年代の日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語で、政治にまったく興味を持たなかった人だけではなく、政治問題に関心はあるものの次第にセクト化・過激化していった学生運動を嫌い特定の党派に属することを拒否した人々なども含まれていた。穏健派で、学園の正常化を求めている。