萌える春秋戦国史「しゅん☆じゅう」 その1
さて、というわけで新コーナーの萌える春秋戦国史が始まるわよ。
えーと、私たちが呼ばれたということはいつもの通り司会役兼進行ということでいいのか?
そうね、今回はオープニングということで今までと同じ形式だけど次回からはあなたたち2人に司会を任せるわ。
さて、というわけで萌える春秋戦国時代を始めるわね。最初は春秋時代の前の西周王朝の崩壊から始めるわ。この西周王朝は中国で実在が確認された2番目に古い王朝よ。紀元前11世紀から繁栄を続けていたのだけど、12代目の幽王の時代になるとそろそろ衰退の兆しが見え始めたの。
幽王
西周王朝第十二(十三)代君主※。在位年は前781〜771年。名は宮涅(涅)。周の宣王の子。
西周王朝最後の王。褒似を寵愛し、太子の宜臼とその母申后を廃した。そのため申后の父申侯に攻められ、驪山のふもとで殺された。というかリアル狼少年?
あぁ・・・世はなかなか治まらずに気が滅入ることばかりだ。何か楽しいことはないだろうか。
陛下、陛下は先日美しい后を迎えられたばかりではありませんか。
あぁ、褒似のことか。しかしあの女はは何故か笑わぬ・・・美しいのは間違いないのだが。
虢石父
虢国の君主で、周の幽王の卿士。名は鼓。卿士に任じられるが、口がうまく、悪賢く、利を好んだため人々はこの人事を怨んだという。
褒似
幽王の夫人。褒は出身国の褒、姒は褒の姓。褒の国から周の幽王に献上され、寵愛を受ける。褒姒の生んだ伯服が太子になったため、廃された申后の父申侯に攻められ、驪山のふもとで捕らわれる。その後は不明。傾国の美女。笑わない美女として有名。
優れた音楽家を使って演奏させては?
(やってたんですか。)それでは・・・そうですな、褒似様の子伯服様を太子とするというのはいかがでしょうか?
む、その声は鄭桓公。
鄭桓公
鄭国初代君主。在位年は前806〜771年。名は友。周の徐王の子、宣王の弟。周の宣王に鄭に封じられる。名君として民に慕われるが、周の幽王とともに申候・犬戎に殺された。
陛下、陛下には既に正室の申后様と太子の宜臼様がいらっしゃいます。落度も無いのに皇后と太子を廃するのはいかがなものでしょうか。それに父親の申候の恨みを買うことになります。
というわけで、申后様、宜臼様。あなた方は実家へお帰りください。
申后
幽王の夫人。申侯の娘。一時険悪なものとなっていた周王室と申国の修好のために、当時太子であった幽王に嫁いだ。宜臼を産み、幽王の正室となるが、幽王が褒姒を寵愛するようになると后の位を廃され、申に戻った。
宜臼(後の平王)
東周王朝初代(周王朝第十三代)君主。在位年は前770〜720年。名は宜臼。幽王の子、母は申后。
幽王の太子であったが褒姒を寵愛した幽王に廃され、母と共に申に逃れる。幽王の死後、申で即位し、東の洛邑(洛陽)に移る。
なな、なんですって!?娘と孫がいきなり王宮を追い出されたぁ!?あんの馬鹿王め、いつか思いしらせてやるわよ!
申侯
申国の君主。
西周の有力諸侯、申の君主。幽王の正室であった娘の申后と外孫の宜臼が廃されたため、西戎や犬戎を誘って鎬京を攻める。当初は鎬京で孫の宜臼を即位させる予定であったが、鎬京が破壊されてしまったため、都を東の洛邑に移した
こんなことがあって西周王朝の実力者の一人申候は幽王を恨むことになったの。そしてさらに決定的な事件が。
ううむ・・・褒似の子を太子に立てたがまだ褒似は笑わぬ・・・一体どうすれば。ん?何故烽火が上がっている?
ちなみにこの当時烽火は急を告げる合図で、近隣の諸侯はこれを合図に兵を集めて西周の首都鎬京(後の長安。現在の西安)を防衛することになっていたのよ。
到着後
・・・あー、その、すまない、何かの手違いで狼煙が上がってしまったようなんだ。
ヽ(・ω・)/ズコー
\(\ ノ
さて、これ以降幽王は褒似を笑わせるために何度も烽火を上げさせたの。最初は律儀に駆けつけていた諸侯たちも次第に馬鹿らしくなって駆けつける数はどんどん減っていたわ。
・・・陛下、戯れに烽火を上げるのはやめたほうがいいかと。このままではいずれ大変なことになります。
しかし、ここで以前から恨みを抱いていた申候が西方の騎馬民族犬戎と手を組んで鎬京を襲撃したの。
一方鎬京では
何!?申候が犬戎と手を組んで攻撃してきた!?早速烽火を上げよ!
ところが諸侯たちは
こんなわけで諸侯たちは誰一人駆けつけずに鎬京は陥落。幽王は鄭桓公と一緒に殺されて西周王朝は滅亡したの。
陛下、それは死亡フラグでs
それが犬戎に連れ去られたとか自殺したとか斬り殺されたとか・・・まぁ、どれか好きなのを選んで。
一方申候のほうは
ちっ、しくじったわね・・・犬戎と手を組んだばかりに鎬京は火の海じゃない・・・せっかく宜臼を王に立てようと思ったのにここでは無理ね。都を洛陽(現在の洛陽市)に移しましょう。
というわけで申候は諸侯と相談して洛陽に都を移し、太子宜臼を王に立てたの。これが東周王朝よ。即位した太子宜臼は周平王と呼ばれたわ。ただ、これによって周王朝の権威は地に落ちて東周王朝はほとんど有名
無実となるわ。これから有力諸侯が鎬を削る春秋時代の始まりよ。
いえ、もう少しだけ話を進めるわ。鎬京が陥落したときに幽王と一緒に殺された鄭桓公だけど、彼は本国に掘突という息子がいたの。
掘突(後の鄭武公)
鄭国第二代君主。在位年は前770〜744年。名は掘突。桓公の子。東虢や鄶などの国を滅ぼし、申候の娘を夫人に迎えるなど鄭の中原における基盤を築いた。また、平王を援けた功績から周の司徒に任命され、後に卿士となった。
何!?この前の烽火は本当で鎬京に犬戎が殺到しているだって!?いかん、父上が危ない、兵を集めて出撃する!
いえ、もはや間に合いません。幽王陛下とお父上の桓公が戦死されたとの報告が届いています。
くっ、間に合わなかったか・・・都城の新鄭(現在の河南省新鄭市)に戻るぞ。
こうして掘突は即位して鄭武公と称したの。彼は西周の滅亡の混乱に乗じて勢力を拡大したわ。
気にしたら負けよ。さて、そんなこんなで鄭武公の10年、夫人の武姜との間に太子の寤生が生まれたの。ところが・・・
武姜
武公の夫人。申候の娘。武は夫の諡、姜は生国申の姓。武公に嫁ぎ、寤生と段を生んだ。しかし、弟の段を溺愛し反乱の原因をつくった。
うう・・・なんでこんな酷い目に・・・え?足から先に生まれた逆子だった!?それでこんな苦しい思いする羽目になったの!?
じつはこの寤生というのは逆子という意味なの。日本なら逆子とでも名前につけるようなものね。
そして1年後、再び武姜は男子を出産するわ。今度は安産で子供は段と名づけられたわ。武姜は長男寤生よりも次男の段を溺愛するようになっていったの。
いや、寤生に特に落度があるわけでなし、それに長男を廃して次男を立てると騒動の元になる。駄目だ。
しかし、そのまま城に置くのも・・・そうだ、段を共城に封じよう。
そんなわけで寤生は無事に太子として育ったわ。これが後に春秋の小覇と呼ばれる鄭荘公よ。そして鄭の武公は在位27年で世を去り、いよいよ荘公の時代がはじまるんだけど、今回はここで一息入れるわね。
寤生(後の鄭荘公)
次回からの主人公。春秋の小覇と呼ばれ、鄭の最盛期を築く。
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