萌える春秋戦国史「しゅん☆じゅう」その17
ふむ・・・以前紹介したあの本がまさかドラマCD化されてたとはね・・・
- アーティスト: イメージ・アルバム,能登麻美子,櫻井孝宏,杉田智和,浪川大輔
- 出版社/メーカー: インターコミュニケーションズ
- 発売日: 2007/12/25
- メディア: CD
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しかもヒロインの声は能登ですからね。やはり人気があるんでしょうか。
さて、前回は周王朝の動乱をメインに話を進めました。紀元前673年、この年に周恵王が復位したのは前回紹介したとおりですが、この直後に楚国で政変が起こって楚成王が即位します。この楚成王は即位直後に周王朝に貢物を贈りました。そのため楚国は中原の地と認定され、しばらくの平和が訪れます。
このため数年間は国家間の戦争は鳴りを潜めたものの逆に国内の権力闘争が激しくなる事になったのです。
外敵がいなくなれば国内で権力闘争ってなんてお約束な展開・・・
紀元前667年 斉の首都・臨淄
管仲
殿、南方の陳国で政変が起こったようだぜ。
斉桓公
なんですって?
鮑叔
どうも陳の公子禦寇が父の陳宣公に対して反乱を起こしたようですが返り討ちにあって殺害されたようです。
陳宣公
陳国第十六代君主。在位年は前692〜648年。名は杵臼。桓公の子、荘公の弟。公子禦寇に反乱を起こされるが、簡単に鎮圧した。
公子禦寇
陳の公子。前667年没。宣公の太子。陳宣公に対して反乱を起こしたが返り討ちにあった。
まぁ、とはいえわが国には関係なさそうね、放っておきましょう。
その後
?どうしてかしら・・・ともかく会って見ましょう。ここへ呼んで。
貴方が公子完ね。どうしてわが国に亡命しようと思ったのかしら?
いやー、ついこの間公子禦寇が反乱起こしたのは知ってるでしょ?私はそれには関わってなかったんだけど公子禦寇とは仲が良かったもんだから下手したら巻き添えで処罰されそうで・・・そんなわけで国を出る事にしたの。出来ればこの国で仕官させて欲しいんだけど。
ふむ・・・管仲、どう思う?
そうだな、公子完殿は学識があり、特に工芸の技能に優れているとか。いいと思うぜ。
それでは貴方を技工集団の長である「工正」の職に任命し、新しく田の地を授けましょう。
おお、ありがとう−,それじゃ私はこれから名前を田完と改める事にします。
田完(公子完)
陳の公子、後の田斉の先祖。田敬仲とも呼ばれる。陳の宣公の太子、公子禦寇と仲が良かったが、宣公が禦寇を殺したので難を逃れるために斉へ亡命した。生まれたときに彼を見た占い師が「ゆくゆくは諸侯になるでしょうが、それはこの陳ではなく、別の国においてでしょう」と言ったとされる。
そして一年後
それが、以前周で王子頽が反乱を起こした時に王子頽を支援した衛を征伐して欲しいとのことだぜ。
アレからもう何年も経っているのに?まぁ、いいでしょう。東郭牙!早速軍を率いて衛軍を叩きのめしてくるように!
衛の首都・帝丘
衛懿公
衛国第17代目の君主。名は赤。衛恵公の息子。鶴が好きで贅沢を好んだため、大臣も臣民も服従しなかったといわれる。
それが、以前わが国が周の内乱に介入して王子頽を支援した罪を問うためとか・・・
ふむ、衛軍が出てきたわね・・・久しぶりの出番、暴れさせてもらうわ!攻撃開始!
やはり勝てませんでしたか。こうなったら金銀財宝を渡してお引取り願うしか・・・
私は衛の公子開方と言うものです。降伏の証にこれらの財物をお持ちしました。
ふむ・・・これだけあれば戦利品としては十分ね。よし、これで我が軍は引き上げる事にしましょう。
それから、私も衛の国を捨てて斉に仕えたいと思います。今のわが国は政治も安定せずに君主もボンクラですので・・・
一方その頃、斉のほうでは
殿、大変だ、楚の宰相の子元が大軍を率いて鄭に攻め込んだようだぜ。
何ですって!?こうしてはいられないわね、早速鄭に援軍を出すように。
しかし、楚軍は大軍、わが国は衛へ遠征軍を出しており兵が足りないのでは・・・
心配は要らない、魯と宋に援軍を頼めば兵力は十分だ。それに・・・
鄭に攻め込めば鄭がわが国に援軍を頼むのは向こうも百も承知のはず。それなら向こうもこっちの援軍が到着するのは計算しているはずだ。それを承知で異常な大軍を動かしたと言う事は短期間で攻め込んで勝利の名を得るためか単なる威嚇で、つまり本気で我が軍とぶつかる気は無い、ということだ。
しかしいくら大軍でも本気で戦う気の無い軍勢なら急襲すれば打ち破るのは造作も無いことだぜ。
というわけで、斉は急いで援軍を編成、魯、宋両国の軍と合流して鄭へ向かいました。
ええ、実はこのとき鄭に侵攻した楚の宰相の子元は楚文王の弟で楚成王の叔父に当たる人物なのですが女好きで以前文王が息から攫って来た息嬀に横恋慕していました。ところが息嬀は未亡人となりながらも彼には洟も引っ掛けません。
子元
楚の宰相。楚文王の弟にあたる。楚成王の即位後は権力の座に就き、政治を思うままに操ったが・・・
ふむふむ。・・・・・・ところでなんで前に出てきたのと同じ顔のキャラなの?
息嬀
え?また子元から誘いの手紙が来たですって?ふん、あんな男らしくも無いヘタレなんか顔を見るのも嫌です。無視しておきなさい。
楚軍兵士
・・・殿、息嬀様はこんな事を言われているようですが。
何だと!ううむ、こうなったら戦争で勇ましいところを見せ付けてやる!よし、鄭に出兵するぞ!
鄭の首都・新鄭
・・・・・・うっ!急用を思い出したぜ!必ず戻ってくるからなっ!
結局鄭に攻め込んだ楚軍はそのまま総退却したの。ところが、この後も子元は楚で専横を極めたので群臣の反感を買うことに。
どう考えても死亡フラグです。本当に(ry
楚成王
・・・いくら我が叔父とはいえ近頃の子元の所業は目に余るものがあるな。このままでは国のためにならない。・・・死んでもらうか・・・
こうして宰相の子元は殺され、子文が宰相の座に就きました。彼は清廉潔白で有能な人物だったため、これ以降楚の国力は強大化することになります。
子文(闘穀於菟)
楚の宰相(令尹)。字は子文。闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相の一人といわれる。闘伯比は鄖公の娘と密通して子文が生れた。鄖公の娘は子文を雲夢の沢の中に捨てたが、虎が乳を飲ませて育てた。狩りに出た鄖公がこれを見つけ、娘に子文を育てることを許した。 子文は令尹に抜擢された際に、私財を投じて楚の財政を救った。楚の成王は貧乏になって食いつなげなくなった子文のために俸禄を増やそうとしたが、成王が俸禄を出すたびに子文は必ず下野し、成王がやめると戻ってきたので、遂には成王も諦めたという。代わりに子文が登朝する度に肉の干物一束と朝飯一籠を贈るようにし、この習慣はのちに楚の令尹に受け継がれていくようになった。
今回の死亡者
公子禦寇
陳の公子。前667年没。宣公の太子。陳宣公に対して反乱を起こしたが返り討ちにあった。
子元
楚の宰相。楚文王の弟にあたる。楚成王の即位後は権力の座に就き、政治を思うままに操ったが、成王と群臣の反感を買い、粛清された。
なお、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。