萌える春秋戦国史「しゅん☆じゅう」その19
あ、今度は史記がネタなんですね。
紀元前656年 斉の首都・臨淄
管仲
はい?いきなりどうしたというんだ?
この前蔡から嫁いできた夫人と舟遊びしてたんだけど、私がカナヅチなの知ってて船をゆすった挙句川に落としたのよ?!
しかも少し頭冷やさせようと実家(蔡)に帰らせたら蔡候(夫人の兄)がさっさと他国に再婚させちゃうし・・・ 蔡は礼に背いたわ、さぁ、討伐しましょうさぁさぁさぁ。
鮑叔
いや、殿・・・仮にもわが国は覇王の国なんですからそんなしょーもない理由で出兵なんか出来ませんよ。
・・・そうだ、いい方法がある。最近南方の楚がまた中原に進出しようとしているがこちらとしてはそれを阻止しないとならない。そろそろこっちからも出兵する必要があるがそのとき援軍を呼ぶときに故意に蔡に呼びかけないでおこう。それなら兵を出さなかったとして蔡を攻撃できる。
というわけで斉・宋・衛・鄭・陳・許・魯・曹の8カ国連合軍が集結、蔡を攻撃したの。当然かなうわけも無くあっさり蔡公は捕虜になってしまったわ。
一方楚の方でも楚成王が軍を率いて北上。国境付近で両軍がにらみ合いを続ける事になったの。
楚軍陣地
楚成王
ふむ・・・膠着状態になったか・・・子文、どうすべきだと思う?
子文
そうですね・・・両軍の規模はほとんど同じ、しかも敵は連合軍の強みで補給の心配も無いようです。このままでは先に動いた方が負けます。
下手に戦いを始めれば泥沼の消耗戦になります。ただ、向こうもそれは分かっているはず。ここは一歩引いて講和すべきです。
屈完
楚の名門・屈氏出身の大夫。楚に攻め込んだ斉軍へ使者として向かい、講和を結ぶ。
連合軍陣地
このままでは先に動いた方が負ける。ただ、向こうもそれは分かっているはずだ。講和の使者が来たら受けるべきだな。
斉軍兵士
申し上げます!楚軍より軍使がこちらに向かっています!
屈完
私は楚の行人(外務大臣)の屈完です。貴方が斉の宰相管仲ですね。一つ聞きたいことがあるのだけれど・・・
斉と楚の両国はそれぞれ北と南を治め、それぞれ遠く離れているのに何ゆえ出兵などしたの?
理由は二つある。まず楚成王が周の王室に貢物を納めるのを怠った。また、今から346年前に周昭王が南西された際に楚で行方不明となった。その責任を問うためさ。
なるほど・・・しかし周昭王の件は何しろ昔の事。責任は負いかねます。またわが国が周王朝に貢物を納める義務があるとは知りませんでした。それに関してはお詫びしますが、いきなり大軍を差し向けるのは穏やかではありません。どうか軍を一舎(当時の軍の行軍距離で約一日分)引いていただきたい。そうすれば今後貢物を納めましょう。
こうして斉と楚は召陵という場所で会盟を行い和睦しました。これ以降しばらく楚の北上はなくなります。
この時点ではお互い決定打に欠けていたため、共倒れになるのを避けたようですね。
斉都・臨淄
殿、命あるものは必ず滅ぶ。そろそろこの国の将来のことも考えて欲しい。
殿には側室も多く、10人以上の公子がいる。一体世継ぎは誰にするつもりなんだ?
そうね・・・では、公子昭を太子に立てましょう。彼は温厚篤実で人望もあるわ。
太子昭(後の斉孝公)
斉桓公の息子(三男。管仲の進言により、斉の太子となる。
それからもう一つ、宋の君主襄公に太子の擁立を頼んでおこう。彼は信用できる人物と聞いている。
人間の欲は恐ろしいもの、それに我が斉は大国。他の公子たちが権力欲に取り付かれる可能性はある。それに以前西方の晋では跡継ぎ争いが起きている。人ごとにはしておけない。
これに関してはもう少し先・・・第三部で触れるとのことですね。
そして紀元前651年、斉桓公は諸侯を集めて葵丘の地で会盟を行います。この時に斉桓公と管仲の2人は当時の宋の君主襄公に跡継ぎの太子昭の後見を頼みました。
宋襄公
宋国第二十代君主。在位年は前650〜637年。名は茲父。桓公の子。父と同様に斉を盟主と仰ぎ、斉の桓公から公子昭(孝公)の後見役を頼まれた。
さて、もう少し話を進めます。葵丘の会盟の6年後、斉を支えていた管仲が病に倒れ危篤に陥りました。
管仲、だいぶ具合が悪いようね・・・
貴方に万一のことがあっては困るわ。この後誰に宰相を任せればいいの?
それは、殿のほうがご存知のはず・・・信頼できる人物を上げてみてくれ。
殿・・・豎刁は確かに殿のお気に入りだが殿に気に入られようと自ら去勢して宦官となり、殿の側室の力を借りて権力を握ったんだ。このような人間を信用してはいけない・・・
豎刁
斉桓公の寵臣の一人。桓公に取り入るため、自ら去勢して宦官となった。
それも駄目だ・・・奴は元々衛の公子。わが国と衛はそう離れていないのに国が滅びかけた時も奴は祖国に戻ってはいない。このような人間を信用してはいけない・・・
では・・・易牙は・・・
もっといけない。奴は確かに365日違ったメニューで食事を出すなど傑出した料理人であることは確かだ。それならそれで立派に務めれば良いものを以前殿が一度も食べた事も無いものを食べたいといった時・・・・・・
易牙
うふふふふふふふ・・・大丈夫・・・痛くしないからぁ・・・・・・
ショッキングなシーンが続くため、モザイク処理を施しています
自分の子を殺して料理し、それを殿に出した。自分の子を殺すような人間を信用してはいけない。
易牙
斉桓公の寵臣の一人。桓公に取り入るため自分の子を殺して料理し、それを桓公に献上したという。しかし料理の腕は確かで1年に365種類のメニューを出すなどしている。また、後の孟子にも中華料理の味付けの基礎を定めたとして賞賛されている。
隰朋がいいだろう。彼は人当たりがよく人望もある。きっと国を良くまとめてくれる・・・
こうして紀元前645年、名宰相管仲は世を去ります。
なお、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。