萌える春秋戦国史「しゅん☆じゅう」その20
さて、今回で萌える春秋戦国史も20回目ね。
今回で第2部・斉桓公編は最終回の予定です。
さて、前回は斉の名宰相管仲が世を去って後任の宰相に隰朋が就任するところまで進みました。ところが、隰朋は就任後数ヶ月で世を去り、さらに後任になった鮑叔も一年足らずで世を去ってしまいます。
なんか末期のソ連の書記長みたいね・・・
しかもこの直後に斉桓公も重病にかかってしまう事に。ここで以前登場した桓公の寵臣たちが動き始めます。
易牙
豎刁・・・・・・殿のご様子は?
まずいわね・・・このままでは次に太子昭が即位する。でも彼は我々を良く思っていないからこの後どうなるか・・・
・・・太子昭に即位させるわけには行かない、そうだ、殿が死んだ頃を見計らって彼の首を取ってしまいましょう。代わりに公子無虧を立てればいい。彼のような無能なら後ろからいくらでも操れます。
公子無虧
斉桓公の長男。しかし愚鈍であったため太子には立てられなかった。桓公の死後、斉の国君の座を狙うが・・・
こうして不穏な空気の漂う中、紀元前643年に斉桓公は世を去ります。
実はこの時既に太子昭は危険を察知して宋に脱出していたのです。
宋都・商丘
宋襄公
おお、これは太子昭殿、今回は災難でしたな。ですがご安心ください、いずれ斉に攻め込んであなたを復位させましょう。
斉都・臨淄
こうなればさっさと公子無虧を即位させて朝臣たちに朝賀を行わせて既成事実を作ってしまいましょう。
ところが、この時朝臣たちは桓公の葬儀が先と主張して朝賀を拒否します。
しかも事件はこれだけでは終わらず、公子開方は別の公子を立てて宮殿に立てこもったりまた別の公子が乱をを起こしたりで斉は数ヶ月の間内乱が続きます。
・・・このまま内乱が続いては国が傾いてしまう・・・何とかしなくては・・・
既に先君が崩御されてから数ヶ月がたちます。しかしいまだ葬儀は行われず遺体は腐乱したままになっております。太子が不在ですので長男の殿下が即位されるのが当然であり、それに異論があるわけではありません。ですが、物事には順序がございます。どうかまずは先君の葬儀を行ってください。そうすれば殿下の擁立を朝臣たちに説得します。
こうして、公子無虧が斉の国君として即位したのですが直後に宋襄公が太子昭を擁して曹・邾と連合して斉に攻め込みました。
無虧の即位を認めるわけにはいかない!太子昭を斉の国君に即位させるのだ!
何!?宋襄公が諸侯の連合軍を率いてわが国に侵入しただと!?よし、兵を率いて出撃する!易牙、ついて来い!
・・・・・・公子無虧が城を出たか・・・よし、豎刁を呼び出そう。
国内に侵入してきた宋襄公の大軍を退かせるのにあなたの頭を借りたい。
私は知恵を借りたいと言ったのではない、頭を、と言ったのだ。・・・やれ!
その頃出撃した斉軍は・・・
ふむ・・・やはり内乱で斉軍の戦力は落ちているな・・・総員、突撃!
この戦いで斉軍は惨敗、無虧は戦死して太子昭が斉孝公として即位しました。
あれ、易牙と公子開方はどうしたの?
こうなったら我が家に伝わる伝統の戦法を使う時・・・・・・それは!「逃げる」!
こんなところに長居は無用。言われなくてもスタコラサッサだぜぇ!
易牙と公子開方の2人はどさくさに紛れて財宝を運び出した後、魯と衛に逃亡しました。
こうして斉の内乱は一段落したのですが、内乱のせいで国力は低下し、覇権は斉の手から消える事になります。
そこで次代の覇権を狙って宋襄公が動き出します。彼はまず紀元前641年 に曹の大夫、邾の大夫と曹の南で会盟を行いました。ここまでは上手く行ったのですが次に斉と楚と会盟を行い、自らを諸侯の盟主として認めるように要請したのです。ところが・・・・・
楚成王
あの弱小の宋が私を招くとは無礼な・・・身の程をわきまえさせてくれる・・・
こうして楚成王が不穏な気配を示す中。紀元前639年に宋の孟という場所で楚・陳・蔡・許・鄭・曹・鄭の各国が集まって会盟が行われました。ここで宋襄公は盟主となるつもりだったのですが・・・
何をおっしゃるのか。私は今は亡き斉桓公に後事を託されたのですぞ。それに会盟の席次は爵位によって決まる。私は公爵(宋は数少ない公爵国)だから、当然上座に・・・
楚都・郢
ああ、中原諸国に我々を侮るとこうなるという脅しをかけるいいチャンスだと思ったからな。
そんな無茶な・・・ただでさえ中原諸国は我々を南蛮と蔑んでいるのにわざわざそれを裏付けるようなことをしてはいけません。とりあえず早く彼を釈放しましょう。
こうして宋襄公は何とか釈放されたのですがそれでも彼は覇権の夢をあきらめませんでした。そんな中、紀元前638年に鄭が楚の盟下に入ったという知らせが届きます。
宋都・商丘
何・・・鄭が楚の下についただと?なんと卑屈な!中原諸国が団結すれば楚など恐れる事は無いのに勝手な事を・・・すぐに鄭に兵を出す!
公子目夷
宋の卿。字は子魚。桓公の子、襄公の兄。左師。公子茲父(襄公)の庶兄で、仁心のあつい人物であっため太子の位を譲られたが辞退した。襄公は位につくと左師に任命して国政に参与させた。すると国内はよく治まったので、その功績から子孫は代々左師の官についた。
いずれ見果てぬ夢を見ているようだが、いい加減に諦めろ。。我が宋は小国、力も無いのに覇王になろうと望めばさらに大きな災いが降りかかる。
こうして宋襄公は鄭に出兵したのですが、すかさず鄭は楚に救援を求めました。そして宋襄公率いる宋軍と楚軍が泓水で決戦を行う事になります。
泓水
ふむ・・・宋軍は北岸に布陣したか・・・こちらも急いで渡河して攻撃に移ろう。
公孫固
宋の卿。前620年没。荘公の孫。司馬。大司馬。襄公・成公に仕えた。杜預の説では泓の戦いで襄公に楚軍への攻撃を進言したのは目夷ではなく公孫固である。
・・・おい、敵の半数が既に上陸を完了しているぞ。敵の数は我が方の二倍、早く攻撃しないと戦機を逃す!
余計な口出しはするな!敵の戦列が整わないのに攻撃するのは仁義に反する。
なら、さっさと兵を引くべきだ!負ける戦いをするのは愚の骨頂だぞ!?
当然というかなんと言うか数に勝る楚軍が圧勝しました。この時から身の程知らずの情けのことを宋襄の仁と呼ぶようになったとも言われています。
宋都・商丘
殿、どうしてあんな事を?我が軍は破れ、自分も負傷したではないか・・・
・・・君子は人の困窮している最中に苦しめず、敵の布陣が整わぬ前に攻撃しないものだ・・・
戦は勝つのが務めだぞ!?こんな事なら戦わない方が良かった・・・
(・・・不利は分かっていたが、それでも自分は仁義を重視しなければいけなかったのだ・・・わが国は殷王朝の末裔の国、戦場の礼が失われつつある今こそそれを守らなければならなかったのだ・・・)
宋襄公はこの泓水の戦いの翌年、受けた傷が悪化して世を去りました。
そうですね、次回で第2部の登場人物をまとめた後に第3部・晋文公編に進みます。
今回の死亡者
豎刁
斉桓公の寵臣の一人。桓公に取り入るため、自ら去勢して宦官となった。斉桓公の死後、乱を起こすが敗れて殺される。
公子無虧
斉桓公の長男。しかし愚鈍であったため太子には立てられなかった。桓公の死後、斉の国君の座を狙うが、宋襄公率いる連合軍と戦って戦死する。
なお、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。