萌える春秋戦国史 「しゅん☆じゅう」 その21

さて、今回で萌える春秋戦国史も21回目ね。



今回は第2部に出てきた登場人物をまとめる予定です。





まずは第2部の主役だった斉からね。



桓公
斉国第十五代君主。在位年は前685〜643年。名は小白。釐公の子。母は衛の公女。春秋の五覇の一人で、最初の覇者。兄の襄公が殺されると、帰国し位についた。守り役である鮑叔の進言を聞いて管仲を宰相に抜擢、国力を増強して初めて覇者となった。名君として讃えられるが、決して聖人君子というわけではなく好色な人物としても有名。そのため後継問題が起こり、後の乱の元となった。しかし、器は大きく、敵であった管仲を重用したのはさすが。また、管仲らの進言をよく聞いて政治を行ったので、桓公が生きている間は斉の覇権が揺らぐことはなかった。なお、春秋の五覇には諸説あるが、桓公は晋の文公と共に覇者の代名詞としてどの説にも含まれている。第2部の主人公。



管仲
斉の宰相。前645年没。名は夷吾、諡は敬、仲は字。管厳(厳仲)の子。管敬仲。潁上の人。大夫の家に生まれたが没落し、貧乏な生活を送る。元は公子糾に仕えていたが、鮑叔の推薦で桓公に仕えた。桓公に仕えて国政を執ると富国強兵策を実行、斉を強国に押し上げて桓公を覇者たらしめた。春秋戦国時代を代表する名宰相。派手好きで奢侈を好んだが、自家を富ますと同時に国を大いに富ませたのでそれを非難するものはなかったという。親友の鮑叔との関係は、「管鮑の交わり」として有名。管仲は、「私を生んでくれたのは父母だが、私を真に理解してくれたのは鮑叔だ」と言ったという。その政策から法家や農家の代表的人物ともみられている。著書に『管子』八十六編(現存七十六編)があるが、これは管仲本人が著したものではなく、後の人が管仲の思想や事跡を記したもの。第2部の主人公。



鮑叔
斉の大夫。鮑敬叔の子、鮑叔牙。公子小白の守り役で、国が乱れると莒へ逃れる。襄公の死後に斉へ戻り、小白を位につけた。桓公(小白)の即位後に親友であった管仲を推挙し、管仲桓公に仕えると、自らその下について管仲を支えた。鮑叔は管仲の最大の理解者で、その関係は「管鮑の交わり」として有名。名伯楽としてその名を残す。



隰朋
斉の大夫。前645年没。公子廖の孫、戴仲の子。管仲らと共に桓公に仕えた。主に外交などで活躍し、管仲の死後は宰相となった。隰明とも書かれる。



東郭牙
斉の大夫。清廉潔白で君主に対しても数々の直言を行い、政治を支えた。ツンデレ



高徯
斉の上卿。諡は敬。公子高の子。公孫徯。高敬仲。高氏は周王から任じられた上卿の家柄で、位は管仲や鮑叔らよりも上。 斉襄公を殺害した公孫無知らを殺害し、桓公を立てた。



雍廩
斉の大夫。高徯の腹心。斉襄公を殺害した公孫無知らを殺害し、桓公を立てた。



田完(公子完)
陳の公子、後の田斉の先祖。田敬仲とも呼ばれる。陳の宣公の太子、公子禦寇と仲が良かったが、宣公が禦寇を殺したので難を逃れるために斉へ亡命した。生まれたときに彼を見た占い師が「ゆくゆくは諸侯になるでしょうが、それはこの陳ではなく、別の国においてでしょう」と言ったとされる。



斉孝公
桓公の息子(三男)。管仲の進言により、斉の太子となる。斉桓公の死後、宋襄公の後見を得て、位に就いた。



高虎
斉の上卿。高氏の当主で、高徯の子孫。斉桓公の死後、豎刁を殺害し、斉孝公を立てた。




公子開方
衛の公子で、斉桓公の寵臣の一人。衛懿公に仕えるが、後に斉に亡命する。斉桓公の死後、乱を起こすが、失敗し、衛へ逃亡した。



豎刁
桓公の寵臣の一人。桓公に取り入るため、自ら去勢して宦官となった。桓公の死後、乱を起こすが敗れて高虎に殺される。



易牙
桓公の寵臣の一人。桓公に取り入るため自分の子を殺して料理し、それを桓公に献上したという。しかし料理の腕は確かで1年に365種類のメニューを出すなどしている。また、後の孟子にも中華料理の味付けの基礎を定めたとして賞賛されている。斉桓公の死後、乱を起こすが、失敗し、魯へ逃亡した。



公子無虧
桓公の長男。しかし愚鈍であったため太子には立てられなかった。桓公の死後、斉の国君の座を狙うが、宋襄公率いる連合軍と戦って戦死する。



公子糾
斉の公子。前685年没。釐公の子、母は魯の公女。公孫無知の乱が起こると、それを避けるために魯へ出奔した。魯の力で位につこうとしたが、失敗して魯で処刑された。



斉襄公
第6話より登場。斉国第十四代君主。在位年は前697〜686年。名は諸児。釐公の子。妹の文姜と通じ魯の桓公を殺すなど、その行いはまさに傍若無人あまりの暴君ぶりに周囲の恨みを買い、公孫無知らに殺された。妹萌え属性の先駆者


文姜
第6話より登場。斉の公女。魯に嫁いだが、兄の襄公と密通していた。その辺非処女で大丈夫だったのだろうか?後に夫の魯桓公咎められる。そのことが原因で、桓公は斉で殺されてしまった。桓公の死後は斉と魯を頻繁に行き来するようになった。



公子彭生
斉の公子。前694年没。怪力の持ち主で、魯の桓公を抱き上げ、肋骨をひしいで殺した。しかし、後に魯にそのことを責められ処刑される。



公孫無知
斉の公孫。前685年没。夷仲年の子。釐公に寵愛され、太子と同じ待遇を与えられていたが、待遇を引き下げられたため襄公を憎む。連称・管至父と結んで謀反を起こし襄公を殺したが、すぐに高徯、雍廩らに殺された。



連称
斉の大夫。襄公の命で管至父と共に癸丘の守備に就き、約束の期限になっても帰ることができなかったので謀反を起こしたが、すぐに高徯、雍廩らに殺された。


管至父
斉の大夫。襄公の命で連称と共に癸丘の守備に就き、約束の期限になっても帰ることができなかったので謀反を起こしたが、すぐに高徯、雍廩らに殺された。
 

次は魯ですね。この国は最初は扱いが地味だったはずなのですが・・・


直前に作者がコレ読んだせいで大幅に出番が増えたようね。


侠骨記 (講談社文庫)

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魯荘公
魯国第16代目の君主。名は同。在位中、何度も斉と戦火を交わし、領土を奪われたが、曹沫の活躍で領土を取り戻し、その後は平穏に国を治めた。32年という魯国で二番目に長い在位期間を持つ。



曹沫
魯の下級貴族。魯荘公の抜擢で魯の将軍となり、斉と戦う。長勺、乗丘の戦いでは勝利を収めるが、後に斉軍の反撃を受け、領土を奪われる。しかし、柯の会盟で斉桓公を脅迫し、領土を取り戻した。



臧孫達
魯の名門、臧孫氏の長老。ご意見番的立場で魯荘公を支えた。



臧孫辰
臧孫達の孫。幼少時から俊英の名が高く、魯の名臣として名を残した。



公子偃
魯の大夫。乗丘の戦いで魯に侵入してきた宋・斉連合軍と戦う。



欧孫生
魯随一の勇将。乗丘の戦いで魯に侵入してきた宋・斉連合軍と戦い、宋の南宮長万を捕らえた。



季友
魯荘公の弟。成季とも呼ばれる。魯荘公死後の政変を治め、公子申(魯釐公)を擁立した。



魯釐公
魯国第18代目の君主。公子申。魯荘公死後の政変の後、季友によって擁立された。



慶父
魯の公子で、魯荘公の弟。荘公の死後、荘公の夫人と組み、政変を起こすが、国人らの反撃を受けて自決する。


哀姜
斉の公女、魯荘公の夫人。荘公の死後、慶父と組んで2人の国君を殺害するが、斉の刺客に殺される。


叔牙
魯の公子で、魯荘公の弟。荘公の死後の政変で慶父に協力するが季友の反撃を受け殺される。


公子班
魯の公子で、魯荘公の息子。荘公の死後、位に就くがすぐに慶父に殺害された。


魯閔公
魯の公子で、魯荘公の息子。公子班の死後、位に就くがすぐに慶父に殺害された。

桓公
魯国第十五代君主。在位年は前711〜694年。名は允。恵公の子・母は仲子。恵公が晩年にもうけた子で、母の仲子が寵愛されたため太子となる。隠公を殺した公子羽父によって君に立てられた。斉から夫人を迎えるが、夫人の文姜は兄である斉の襄公と通じ、それを咎めたため斉で殺された。



後半物凄い勢いで死亡者が出てるような・・・


ま、まぁ、こういうご時世ですし。


次は宋へ行くわよ。



宋襄公
宋国第二十代君主。在位年は前650〜637年。名は茲父。桓公の子。父と同様に斉を盟主と仰ぎ、斉の桓公から公子昭(孝公)の後見役を頼まれた。斉の桓公の死後は自ら覇者となるべく、北へ伸張する楚と対決する。しかし、泓の戦いで楚に大敗し、その時の傷が元で亡くなった。君位を譲ることができる人物であり、斉の公子昭の後見役を任されたということを考えても優れた人物であったことは間違いないが、野望が大きすぎたのかもしれない。春秋の五覇にも数えられるが、覇者としてよりも「宋襄の仁」の故事の方が有名。第3部にも登場予定。



公子目夷
宋の卿。字は子魚。桓公の子、襄公の兄。左師。公子茲父(襄公)の庶兄で、仁心のあつい人物であっため太子の位を譲られたが辞退した。襄公は位につくと左師に任命して国政に参与させた。すると国内はよく治まったので、その功績から子孫は代々左師の官についた。



公孫固
宋の卿。前620年没。荘公の孫。司馬。大司馬。襄公・成公に仕えた。杜預の説では泓の戦いで襄公に楚軍への攻撃を進言したのは目夷ではなく公孫固である。第3部にも登場予定。



桓公
宋国第十九代君主。在位年は前681〜651年。名は御説。荘公の子、閔公の弟。まず名君といっていい人物で、南宮長万の乱で乱れた国を安定させた。臧孫達曰く、「恤民の心があり、まさに君主たるべき人物」。外交においては斉を盟主と仰ぎ、斉の桓公が主催する会合・会盟にはほぼ全て参加している。夫人は衛の公女で、昭伯と宣姜の娘。



叔大心
宋の大夫。南宮長万の乱が起こると、宋の公族や曹の軍と協力して南宮氏の軍を破った。乱を鎮めた功から、附庸として蕭に封じられたという。



宋閔公
宋国第十七代君主。在位年は前691〜682年。名は捷。荘公の子。南宮長万をからかったため、恨まれて殺された。


華父督
第5話より登場。宋の卿。前682年没。名は督、字は華父。公子説の子。孔父嘉の妻を見初め、孔父嘉を殺して妻を奪う。さらに殤公をも殺して自身は大宰(宰相)となる。実力は確かで、主君を弑したにもかかわらず30年もの間国の実権を握り続けたが南宮長万の起こした反乱に巻き込まれて殺害された。



仇牧
宋の大夫。前682年没。南宮長万をからかい、宋閔公と共に殺される。


南宮長万
宋の大夫。前682年没。南宮が氏、長万が名。怪力無双の勇者で、乗丘の戦いに参加した際に魯の捕虜となった。そのことを閔公にからかわれたため、閔公を殺して乱を起こした。しかし、失敗して処刑された



猛獲
宋の大夫。前682年没。南宮長万の一味で、乱が起きると南宮牛と共に亳を攻めた。しかし、乱が失敗すると亡命先から送り返され処刑された。三国志の同名の人物とは別人。



南宮牛
宋の大夫。前682年没。南宮長万の子。父が乱を起こすとそれに従い、猛獲と共に亳を攻めたが、叔大心らの反撃を受け戦死した




次は新しく出てきた楚ですね。



楚文王
楚の第十八代君主。在位年は前689〜675年※。名は貲。熊貲。武王の子、母は勝g曼。申や蔡などを攻めて積極的に北方進出を図り、楚の勢力を拡大させたが、巴との戦いで傷を負い、亡くなった。



楚堵敖
楚の第十九代君主。在位年は前674〜672年。名は囏。文王の子、母は息嬀。『史記』では荘敖と書かれる。弟の?を殺そうとしたが、逆に殺されてしまった


楚成王
楚の第20代目の君主。在位年は紀元前672〜626年。楚の国力を強大化させ、中原進出を目論む。第3部にも登場予定。



子文(闘穀於菟)
楚の宰相(令尹)。字は子文。闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相の一人といわれる。闘伯比は鄖公の娘と密通して子文が生れた。鄖公の娘は子文を雲夢の沢の中に捨てたが、虎が乳を飲ませて育てた。狩りに出た鄖公がこれを見つけ、娘に子文を育てることを許した。 子文は令尹に抜擢された際に、私財を投じて楚の財政を救った。楚の成王は貧乏になって食いつなげなくなった子文のために俸禄を増やそうとしたが、成王が俸禄を出すたびに子文は必ず下野し、成王がやめると戻ってきたので、遂には成王も諦めたという。代わりに子文が登朝する度に肉の干物一束と朝飯一籠を贈るようにし、この習慣はのちに楚の令尹に受け継がれていくようになった。



屈完
楚の名門・屈氏出身の大夫。楚に攻め込んだ斉軍へ使者として向かい、講和を結ぶ。



息嬀
息候の夫人。陳の公女で、息に嫁いだ。息へ向かう途中で蔡に寄ったが、蔡の哀侯は息嬀を礼遇しなかった。夫の息侯はこれに激怒し、楚に頼んで蔡を攻めさせた。蔡の哀侯はこれを恨みに思い、楚の文王に息嬀の美しさを誉めそやして伝えた。その結果、息は滅ぼされ、自身は楚の文王の夫人とされた。傾国の美女。



子元
楚の宰相。楚文王の弟にあたる。楚成王の即位後は権力の座に就き、政治を思うままに操ったが、成王と群臣の反感を買い、粛清された。




大体主要国はこんな感じね。


今度はその他の国々の登場人物をまとめて紹介します。



百里
第9話より登場。諸国を遊説して回る浪人。16話終了時に西方の国虞に仕官する。第3部にも登場予定。



蹇叔
第9話より登場。斉の貴族の次男坊。百里渓と共に諸国を巡るが、16話で別れることになった。第3部にも登場予定。



燕荘公
燕国第十七代君主。在位年は前690〜658年。桓侯の子。山戎に攻められたので斉に救援を要請し、斉軍に山戎を討伐してもらった。春秋時代の燕国君主で記述らしい記述のある数少ない人物。



衛懿公
衛国第17代目の君主。名は赤。衛恵公の息子。鶴が好きで贅沢を好んだため、大臣も臣民も服従しなかったといわれる。北狄が衛に侵入した際、家臣や兵からも見捨てられ殺害された。



陳宣公
陳国第十六代君主。在位年は前692〜648年。名は杵臼。桓公の子、荘公の弟。公子禦寇に反乱を起こされるが、簡単に鎮圧した。



公子禦寇
陳の公子。前667年没。宣公の太子。陳宣公に対して反乱を起こしたが返り討ちにあった。



鄭窅公
第6話より登場。鄭国第5代君主。在位年は前700〜673年。名は突、字は子元。荘公の子、母は雍キツ。公子突。荘公の子で、公子忽と位を争う有力公子の一人。外戚である宋の雍氏の力で即位するが、その地位を維持することができず、蔡に出奔するが、後に斉の力を借りて復位した。その後、周王室の内乱にも介入している。



俌瑕
鄭の大夫。前680年没。櫟にいた窅公と約し、鄭子とその二公子を殺した。しかし、鄭に戻った窅公に殺されてしまった。



鄭子
第7話より登場。鄭国第七代君主。在位年は前693〜680年。名は嬰、字は子儀。有力公子の一人。陳にいたが、子亹が殺されたため祭足に迎えられて位についた。13年間位についていたが、子孫が位につけなかったため諡は無い。窅公(公子突)に通じた俌瑕に殺された。



蔡哀侯
蔡の第十二代君主。在位年は前694〜675年。名は献舞。宣侯の子、桓侯の弟。蔡季。兄の桓侯が亡くなったため、陳から呼び戻されて即位した。夫人は陳の公女。



息侯
息国の君主。在位年は前?〜680年。諡は不明。夫人の息嬀が蔡の哀侯に礼遇されなかったので、楚の文王に頼んで蔡候を捕らえた。しかし、そのことが原因となり息嬀は奪われ、国は滅ぼされてしまった。息国最後の君主。



周恵王
周王朝第17代目の王。在位年は紀元前676〜653年。力を伸ばす王子頽の勢力を削るため王子頽派の大臣の領土を削るが、それが原因で乱が起きる。後に鄭の力を借りて乱を鎮圧した。



王子頽
周の王子。前673年没。周荘王の子、母は王姚。周荘王の寵愛を受け、大きな勢力を持った。恵王が即位すると、子頽派の勢力を削ごうとしたので蔿国らと乱を起こした。一度は敗れて温に逃れたが、衛と南燕の力をかりて王を討ち、都に入った。しかし、それを維持することができず、鄭窅公に攻められて殺された


蔿国
周の有力大夫。周荘王から王子頽の守り役に任じられた。荘王の死後も大きな勢力を保っていたが、恵王は子頽派の勢力を削ごうとしたため、子頽をかついで乱を起こした。一度は王を追放し都に入ったが鄭窅公に攻められて殺された。


償セ父
子頽派の大夫。恵王が即位すると領地を取り上げられたので、反乱に加わったが、鄭窅公に攻められて殺された。

 
辺伯
子頽派の大夫。恵王に邸宅を取り上げられたので、反乱に加わったが、鄭窅公に攻められて殺された。


子禽
子頽派の大夫。恵王に領地を取り上げられたので、反乱に加わったが、鄭窅公に攻められて殺された。


祝跪
子頽派の大夫。恵王に領地を取り上げられたので、反乱に加わったが、鄭窅公に攻められて殺された。


石速
子頽派。恵王に秩禄を取り上げられたので、反乱に加わったが、鄭窅公に攻められて殺された



今回はこんな感じかしら?


そうですね、次回以降は時代を少し遡らせて西方の大国晋や秦がメインとなって話が進む予定です。




なお、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。


ぶらんけっと様
眠りの園様
まこっちゃん記様
し〜くれっとも〜ど様