萌える春秋戦国史 「しゅん☆じゅう」 その39
さて、今回で萌える春秋戦国史も39回目ね。
さて、前回で書いたとおり晋の宰相であった先軫が狄との戦いで壮烈な戦死を遂げたわ。これは晋にとってかなりの痛手になったわね。
そうね、息子の先且居はなかなか有能な人物だったようで、殽の戦いの後、再び侵攻してきた孟明視率いる秦軍を撃退しているわ。
でも、秦穆公は孟明視の罪を問わず、再び国政を任せたの。孟明視もこれに応えてさらに国内の政治を整え、民を優遇したと伝えられるわ。
趙衰
そうですか・・・秦ではそのような・・・今度秦軍が攻めてくれば危ないかもしれません。慎重に徳を修めているようですから、対抗できないでしょう。
紀元前624年 晋 王官
今度も敗れて帰る事は許されません!勝たない限り戻れないと思いなさい!
秦軍はここで晋軍を撃破し、王官、郊と2つの都市を占領する事に成功したわ。
そうね、ただ、この後も晋が秦に侵攻したり、両国の間では小競り合いが繰り返される事になるわ。
さて、ここで少し場面を移して楚の方にスポットを当ててみるわ。この時の楚王は晋文公を礼遇した楚成王だったんだけど、先に立てた太子を廃そうとして逆に太子に反乱を起こされてしまったの。
楚成王
むぅ・・・完全に包囲されてしまったか・・・まぁ、大した心残りも無いが・・・おーい、聞こえるか!
太子商臣
楚成王の嫡子。一度は太子に立てられたが、成王の治世末期に太子を廃されそうになり、反乱を起こした。後の楚穆王。
うむ、こうなった上は潔く死ぬ覚悟は決まった。だが、死ぬ前にピザを食べたい、ちょっと持ってきてくれるか?
ん? ・・・あー、そうだった。では熊の掌の煮込み料理を食べたい。
・・・だが断る!そんな悠長な事してる間に援軍呼ぼうと言う腹でしょう!
・・・けちくさい奴め、だがまぁいい、貴様には中国史上最たる親不孝者の称号をくれてやる!
こうして、楚成王は自決、太子商臣が後を継いで楚穆王として即位したわ。
・・・中国史上最たる親不孝者てのはやっぱりあれか、父親を殺した事に対する悪名なのか?
いいえ、そうじゃなくて父親が死ぬ前にあれほど欲しがった食べ物を与えなかったことに対する悪名とのことね。
さて、さらに時は進んで紀元前622年、この年に晋の重臣である趙衰、胥臣、欒枝、先且居の4人が亡くなったの。後を継いだのは以下の人物達になるわ。
この翌年、隣国の秦穆公も在位38年で亡くなっているわ。しかも一つまずいことがあったの。
秦穆公が亡くなった際に家臣177名が殉死してしまったの。主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、国際政治の表舞台から遠ざかることとなるわ。
ただ、西方では秦穆公が各国を制圧していたため秦に対抗できる国は無かったの。その後も秦は西方の強国として存在し続けるわ。
今回の死亡者
楚成王
楚の第20代目の君主。在位年は紀元前672〜626年。楚の国力を強大化させ、中原進出を目論む。亡命中の公子重耳を礼遇したりするなど、名君といえる人物だったが、跡継ぎ問題で対応を誤り、太子商臣に反乱を起こされ、自殺した。
秦穆公
秦の第9代君主。姓は嬴(えい)。諱は任好(じんこう)。徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。優秀な家臣に補佐され、また百里奚や蹇叔等の異邦の異才を登用して国力を増強させた。紀元前621年に死去。その際、有能な家臣が多く殉死したため、秦の勢いは一時振るわなくなる。
趙衰
重耳の側近。驪姫の策謀を避けて出奔した重耳に従い、諸国を放浪した。文公とは遠縁にあたる。帰国後も文公を支え、卿に任命された。紀元前622年に死去する。
先且居
先軫の嫡子。箕の戦いで先軫が戦死した後、父の後をついで晋の宰相となるが、紀元前622年、若くして死去する。
胥臣
重耳の側近。知識に優れ、亡命中の重耳たちを助ける。城濮の戦いでは下軍の佐に任命された。後に野に身を隠していた郤缺を発見、推挙した。紀元前622年に死去する。
欒枝
晋の大夫。晋の名門欒氏の総帥。晋懐公を見限り、重耳側に寝返った。後の城濮の戦いでは下軍の将に任命された。紀元前622年に死去する。
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