萌える春秋戦国史 「しゅん☆じゅう」 その46
さて、随分間が開いてしまったけど萌える春秋戦国史、再開するわよ。
まぁ、管理人がいろいろあったり夏コミもあったりしたということで勘弁して頂戴。
さて、前回は楚荘王が洛陽に攻め込んだところまで話が進んだわね。この後も楚荘王は度々鄭、宋に侵攻したの。
まず地理的に楚に近いという事があるわね。というわけでこの時期の晋と楚の戦いは楚(もしくは晋)が鄭(宋)に侵攻→援軍に駆けつけた晋(楚)軍と戦うという図式がほとんどなの。
そうね。それでも宋の方はほとんどの場合晋についたんだけど鄭の方は攻め込まれるたびに鞍替えするような有様だったの。
子良
鄭穆公の息子で、鄭の大臣。鄭の穆公の子孫で特に有力な七氏である七穆の一員。
晋と楚は徳を修めず武力で争っている。こういう相手には攻めてくるたび服従していれば良い。あの2国には信が無いのだからこちらも信を守る必要は無い。
まぁ、強国にはさまれた小国の外交というのはどうしてもね・・・ちなみに鄭の国情は当分安定せず後に名宰相と呼ばれる子産が出るのを待たないといけないの。子産については次章かその次で主人公になる予定なので待っててね。
ただ、楚の方も体制磐石とは行かなかったの。洛陽に侵攻した直後、楚の有力貴族である若敖氏の一員である子越が反乱を起こしたの。反乱自体は早期に鎮圧されたんだけど楚の名将でかつて晋軍を破った蔿賈が殺害されているわ。
蔿賈
楚の大夫。軍事に優れ、楚王の信頼を得たが、若敖氏の反乱に巻き込まれて殺害された。
また、この時子越の息子の苗賁皇は戦場を脱出、晋に亡命しているわ。
苗賁皇
楚の子越の子。楚荘王が子越を討った際、晋へ亡命して、晋景公に仕えた。このとき、景公から苗の地を賜り苗氏を名乗るようになった。
このあと楚の宰相には蔿賈の息子である孫叔敖が付いたわ。彼は政治に優れ以前出てきた子文と並ぶ名宰相としてたたえられるの。
孫叔敖
楚の令尹。名は艾猟。蔿賈の子。蔿艾猟。蔿敖。孫叔。名門蔿氏の出身。楚の荘王に仕え、父の死後に令尹となって楚の政治を執った。楚屈指の名宰相として知られ、民をよく指導して楚の国力を大いに増強させた。国内は安定し、強い取締りを行わなくても盗賊などは発生しなかったという。また、孫叔敖の定めた法令により整然と行動する楚軍を見て、晋の士会もその手腕を高く評価している。名宰相として称えられる一方で具体的な年代のわかる記述が非常に少なく、細かい事績などはあまりわかっていない。『史記』の循吏列伝によると、無位無官の身から虞丘(前令尹)の推薦で令尹となったという。
また、孫叔敖の幼少期には陰徳という言葉と結びついてこんな逸話もあるわ。
<ふう・・・遅くなってしまった。早く帰らないと・・・ん、あれは?
/: : /:: : : / : : : !:: : : : !: : !: : : ヽ:: : : : : ', /: : /: : : 斗--、 :|: : : : :|: : | ,ィT: ',: : :ヽ : ! |: : |: : : : : |: / \: : /|:.ィ: :ヽ: : :.|.: : : ト、:| |: : |: : : : /!/ ⌒ヽ| :/ |:./⌒ヽV: |.: : : | V < : _: : : / 〈 {} |/ レ {} }|:./ヽ: : | <:: |. 小{ _,,.. - 、-.,_ レ{: :.|ヽ:| 厶ヘ ハ 、 {ハ /⌒ヽ_ノ) ) ) \_! _ ' !! ,' ;'⌒'ー''´ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ \ーェェェェァt / | i| .| < ___,r| \ 、\_ `ヽ / ノ ,'.! .i \ /:/::::| \ ::::: \_`\ \'、 ./ // l| /::::::/::::::| \ ´ ∧\.、_>'´ ノ'´ U /:::::::::::/::::::::| \ /"''- `ー一''´
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<両頭の蛇を見たものはまもなく死ぬと言われています。ついさっき私はそれを見てしまった・・・私はまもなく死ぬのです。
そう・・・それはいい事をしましたね。人に知られない善行を行ったものに天は福を授けます。あなたは死にはしません。安心しなさい。
それから、この事は黙っているのですよ。そうすればきっと楚でえらくなるでしょう。
ちなみにこの話は漢の時代に成立した淮南子と言う書物に書かれているわ。
さて、話を戻すわね。この頃晋では国君の晋成公が亡くなり新しく晋景公が即位したわ。一方楚の方では鄭を攻撃、勢力下に置こうと楚荘王が動き始めていたの。
晋景公
姓は姫、諱は拠。成公の子。父の後を継ぎ、晋の国君となった。
楚荘王
ふん、晋公が亡くなった・・・チャンスね、今なら晋も動けないはず、早速鄭を攻撃するわよ!
一方晋の方では
士会
楚の方はこれを好機と鄭に兵を出すようです。苗賁皇殿の情報では荘王自身が兵を率いるとか・・・現在わが国は全軍は動員出来ません。
・・・援軍は出しましょう。私の中軍と・・・あなたも上軍の一部を率いて来て下さい。
・・・まだ将の欒書殿は下軍を率いて日が浅い・・・それに副将の趙朔殿ははっきり言って戦は不得手・・・ここは留守を頼む事にしましょう。
欒書
晋の卿。諡は武。欒盾の子、欒枝の孫。父の後を継ぎ、晋の卿となった
紀元前600年 鄭
楚王が直接指揮した軍がもうこちらまで向かっています。兵力はこちらが劣勢、篭城する他は・・・
それでは楚軍に主導権を与える事になります。向こうはこちらが出てくるとは思っていないはず・・・出撃して機先を制しましょう。
一方楚軍の方では
楚軍兵士
た、大変です!晋軍と鄭軍が現れました!まっすぐこちらへ進んできます!
ちっ、鄭軍まで動き出したようね・・・ここまでか・・・全軍、撤退!
いいえ、翌年の冬に楚はすぐに軍を興して再び鄭を攻撃しようとしたわ。これに対して晋の方では再び士会が迎撃の軍を出す事にしたの。
紀元前599年 晋
急な事でまだこちらは全軍の動員が出来ていません。急がないと鄭が楚に降伏してしまう・・・
・・・私が出ましょう。兵は神速を尊ぶと言います。現在の兵力でも楚軍を叩く事は出来ます。
鄭 頴水近辺
さて・・・情報によれば楚軍は鄭の南部の攻撃に兵の大半を割いているようです。我が軍は兵力で楚軍に劣勢ですが、楚軍の本隊の兵力は当方の半分以下。我が軍は敵の前衛を蹴散らしたあとまっすぐに本陣に攻め込みます。この戦いは時間が勝負、援軍が来る前に敵の本隊を壊滅させるのです!
士氏は戦いに負けたことがない、勝つと言ったら必ず勝つ。どうせ勝つならこの俺が楚王を捕らえてやるぜ!
楚軍本陣
我が軍の先鋒部隊が晋軍によって壊滅させられました!晋軍はそのままこちらに・・・
早い・・・敵将はおそらく士会ね・・・ここで踏みとどまっても全滅するだけか・・・
ご苦労様でした。楚王は逃げたようですが、敵の損害は甚大です。帰還しましょう。
こうして、士会は頴水の戦いで楚軍を再び破ったの。楚軍相手にここまで勝利を重ねたのはこの時代では士会だけね。
さて、話は変わってRこの次の年、晋では郤缺が狄の諸部族に和睦を持ちかけたの。するとかなりの数の狄の部族が晋に従いたいということになったのね。
紀元前598年 晋
・・・というわけで、かなりの数の部族が我が国に属したいと・・・それで、会合を行いたいと思います。殿もお出ましください。
晋の大夫
何だと!狄との会合に殿を出向させるとは・・・奴らをこちらに呼びつければいいではないか!
こちらが勤労しないようでは、人を従えることは到底出来ません。
こうして、景公は自ら赴いて狄の諸族と会合したの。狄の諸族はこの会合に信義をみて以後よくなついたわ。
この直後、郤缺は逝去したわ。彼は死後、「成」を諡され、郤成子と呼ばれるの。
そうね、次回は春秋時代の大会戦である邲の戦いを書いていく予定よ。
今回の死亡者
蔿賈
楚の大夫。軍事に優れ、楚王の信頼を得たが、若敖氏の反乱に巻き込まれて殺害された。
郤缺
晋の卿。諡は成。郤芮の子。父が乱を起こしたため、文公即位後は冀で庶民のような生活をしていた。胥臣の推挙で大夫となると、冀の戦いで戦功を挙げ卿の一人となった。その後は順調に位を上げ、趙盾の次の正卿となった。軍事に明るく戦功も多いが、武力よりも徳を重んじる政策をとった。郤氏中興の祖。冀に領地を持っていたため冀缺とも呼ばれる。紀元前598年に逝去した。