萌えるバトル・オブ・ブリテン

本日は久しぶりに歴史ネタ第5弾を行おうと思います。今回は第二次世界大戦の一場面、英国本土航空戦を。



萌える英国本土航空戦


あらすじ
1939年、ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦は激化の一途を辿っていった。イギリスは連合国として参戦し、ノルウェー、フランスで戦ったが圧倒的なドイツ軍の前に敗退を重ね、1940年にはダンケルクから撤退することとなった。このときイギリスに渡ったフランス軍将校のシャルル・ド・ゴールがフランスの植民地政府を味方に付けレジスタンスを結成するなどして徹底抗戦の構えを見せた。このためイギリス本土への上陸作戦を決意したドイツは、上陸作戦用の水陸両用戦車も準備した。上陸作戦部隊の海路確保のためドーバー海峡における航空優勢の獲得を目指して、1940年7月、先ずイギリス空軍の撃滅と軍事施設破壊を目的とした航空作戦を開始した。



航空戦の経緯
当初ドイツはドーバー海峡の船舶を攻撃してイギリス空軍をおびき出すなどし、優勢に戦いを進めていた。一方イギリス空軍は十分な戦闘機が整わないままに消耗戦に突入し、イギリス本土、南部の航空基地に攻撃を許すことになった。ドイツ空軍の方でも戦闘機がブリテン島上空にはとどまれないという事情があったため、決定打を出すことが出来なかったが、イギリス空軍のパイロットも次第に消耗して危機的状況に陥った。そのような状況下の8月24日、事態は大きなターニングポイントを迎える。ドイツ軍機が航法ミスによりロンドンを誤爆したのである。翌日以降、イギリスは報復としてベルリンを連日爆撃した。夜間爆撃だったこともあり大きな被害を与えることはできなかったが、首都爆撃の衝撃は大きく、ドイツは報復の報復として爆撃目標をロンドンに集中させた。これによってイギリス国民は決死の覚悟を決めることとなっただけでなく、ロンドンに夜間無差別爆撃が集中している間に軍事拠点を修復、消耗し崩壊寸前だった昼間戦闘機部隊の回復のための余裕が生まれた。これ以降イギリス戦闘機部隊は戦力を建て直し、ドイツ軍の消耗は増える一方となった。このためドイツは1941年春、イギリス本土への一切の作戦を中止しアシカ作戦は無期延期となった。






主な登場人物(イギリス)


ウィンストン・チャーチル 
バトル・オブ・ブリテン当時のイギリス首相。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。余談であるが、第二次大戦での重荷はドイツやソ連でなく自由フランスだったらしい。


アラン・ビーバーブルック 
イギリスの新聞王。政治家に転身した後、第二次大戦の勃発後に航空機生産担当大臣に任命される。バトル・オブ・ブリテン当時の戦闘機不足を解消するためあらゆる手段でもって戦闘機を増産した。


ヒュー・ダウディング 
バトル・オブ・ブリテン当時のイギリス空軍戦闘機軍団司令官。不利な状況下の中で戦闘機とレーダーを組み合わせた防空システムを構築し、ドイツ軍を苦しめた。しかし、持ち前の頑固な性格が災いし、間違った考えの人々に対し強情なほど自分の正しさを主張しすぎたため、首相チャーチルや政府要人を敵に回してしまった。このため、バトル・オブ・ブリテンの後に職を罷免されてしまう。後に名誉回復がなされ、ベントリー・プライオリー領を持つ貴族となる。


キース・パーク 
イギリス空軍戦闘機軍団第11飛行群司令官。この飛行群は対ドイツ空軍の最前線にあり、全期間を通して激戦を繰り広げた。パークは戦力温存のためドイツ空軍の攻撃に対して飛行隊ごとの「小出しの迎撃」を行ったが、この戦略に反対するリー・マロリーと対立し、後に職を罷免された。本土航空戦後はマルタ島航空戦などで活躍。


トラッフォード・リー・マロリー 
イギリス空軍戦闘機軍団12飛行群司令官。この飛行群は中部イングランド防衛を任務としていた。彼は飛行隊を大規模に集中して運用する「ビッグ・ウィング」戦術を主張し、少数運用を主張したパーク、ダウディングと対立した。采配がしばしば失敗することもあったが、この戦術は上層部への受けは良かったため、後にダウディングを失脚させ、後任の戦闘機軍団司令官に就任する。


クウィンティン・ブランド 
イギリス空軍戦闘機軍団10飛行群司令官。イングランド南西部防衛を任務とし、東隣の第11飛行群と同様、ドイツ空軍と激戦を繰り広げた。


R・E・ソール 
イギリス空軍戦闘機軍団13飛行群司令官。イングランド北部、スコットランド防衛を任務としていた。この飛行群では比較的ドイツ空軍の脅威が低かったため、損傷した飛行隊の戦力回復などが行われた。8月15日の攻撃ではノルウェーからの爆撃機を見事に撃退する事に成功。


アーサー・ハリス 
イギリス空軍爆撃機軍団司令官。バトル・オブ・ブリテン当時は英国空軍の水上救難体制の強化などを提唱した。また、ドイツ工業地域への攻撃やフランスに集結したドイツ軍輸送船、舟艇部隊への攻撃を行い、ボディーブローのようにダメージを与えた。後の対ドイツ作戦ではアメリカが推進する精密爆撃の有効性に疑問を示し、地域爆撃を提唱した。1942年5月のケルン爆撃において最初の頂点に達したものの、非戦闘員である民間人の虐殺に等しいこの地域爆撃は次第に批判を受けるようになった。


アドルフ・ギズバート・マラン 
南アフリカ出身のイギリス空軍エース。バトル・オブ・ブリテンでは第74飛行中隊を率いてドイツ空軍と戦う。パイロットになる前は船乗りで、「セイラー」というあだ名がついた。また、大戦中に会得した空戦技術をまとめた「空戦十則」を作成するなど、イギリス空軍の勝利に多大な貢献がある。


スタニスワフ・スカルスキ 
撃墜22機のポーランド人トップエース。ドイツ軍のポーランド侵攻の最中にも6機のドイツ機撃墜記録を挙げる。ポーランド崩壊後はイギリスに渡り、第501戦闘機中隊に所属し、その後第303戦闘機中隊、第306戦闘機中隊に転属、次に第317戦闘機中隊長となった。戦後、祖国でスパイ容疑で逮捕されるも、スターリンの死後に釈放、ポーランド空軍准将となる。


主な登場人物(ドイツ)


アドルフ・ヒトラー 
言わずと知れたドイツの独裁者。西方電撃戦の終了後、イギリスに対して和平を求めるが、拒絶されたと知るや、対イギリス上陸作戦「アシカ作戦」の準備を行う。


ヘルマン・ゲーリング 
ドイツ第三帝国のナンバー2にしてドイツ空軍最高司令官。元は一次大戦中のエースパイロットでドイツ空軍の建設を推進した。しかし、実務は部下に丸投げであったり、レーダー能力の認識不足、攻撃偏重主義による戦闘機不足や戦略爆撃への無理解によってバトル・オブ・ブリテンでは手痛い敗北を喫する。


ヒューゴー・シュペルレ 
ドイツ空軍第3航空艦隊司令官。元はスペイン内戦にも参加した経験ある将軍だったが、バトル・オブ・ブリテンの最中に夜間爆撃中心の任務に追いやられ、後に予備役に移された。


アルベルト・ケッセルリンク 
ドイツ空軍第2航空艦隊司令官。元は陸軍出身の将軍で、空軍参謀総長より前線部隊の司令官に転出。有能な軍人であったが、イギリス空軍の激しい抵抗と機材不足、パイロットの消耗には耐え切れず、イングランドの制空権奪取は出来なかった。後にイタリアで連合国軍と戦うことになる。


H・J・シュタンプ 
ドイツ空軍第5航空艦隊司令官。この部隊はノルウェーデンマークに駐屯しており、8月にブリテン島北部に奇襲攻撃を仕掛けるも第13飛行群に迎撃され、攻撃は失敗に終わった。


アドルフ・ガーランド 
ドイツ空軍第26戦闘航空団司令。バトル・オブ・ブリテンでは僚友のメルダースと共にドイツ戦闘機部隊の中核を担うことになった。後にドイツ空軍が劣勢になる中、ヘルマン・ゲーリングに「どんな戦闘機があれば英空軍に勝利できるというのか」と詰問されたガーランドは、「英空軍のスピットファイアが欲しい」と言い放ち、ゲーリングを絶句させたという。戦後、収容所から解放された後の最初の仕事はイギリス空軍における戦術教官であった。


ヴェルナー・メルダース 
ドイツ空軍第51戦闘航空団司令。空軍のパイロット試験を志願した際、乗り物酔いがひどいということで不適格となったが、それを克服し、パイロットとなった。スペイン内戦の最中に二機編隊を基本単位とする「シュヴァルム」戦法を編み出した。バトル・オブ・ブリテンの最中にはイギリス空軍のエース「セイラー」マランと対決するも、引き分けに終わっている。独ソ戦の開始後、撃墜スコアを100機に伸ばすも、その年の暮れに飛行機事故で死亡。


ヴァルター・ルーベンスデルファー 
ドイツ空軍第210実験飛行隊隊長。元々この飛行隊はME210双発戦闘爆撃機の実験部隊だったが、この航空機があまりにも不安定な機体だったため、既存のME109.ME110戦闘機による地上強襲戦術を開発、実戦投入にこぎつけた。この部隊は大きな戦果を挙げたものの、損害も大きく、ルーベンスデルファー自身も1940年8月に戦死した。しかし、彼の編み出した戦闘爆撃機による強襲戦術は第二次世界大戦中戦術爆撃の主流となり、各国の軍で使われた。