萌える春秋戦国史 その2
さて、というわけで萌える春秋戦国史の2回目だけど・・・
作者が単に慣れてないだけでしょ。今までメインで話してた咲夜がいなくなったから。
なるほど。で、ええと、前回は確か西周の滅亡と鄭の発展までだったな。
そうね、これから先数回は主に鄭が主人公的位置づけになるわ。今回は春秋の小覇鄭荘公が即位したところから始めるわよ。
鄭荘公
鄭国第三代君主。在位年は前743〜701年。名は寤生。武公の子、母は武姜。鄭の最盛期を作り上げた名君。周の卿士であったが、後に周室と対立。繻葛の戦いで周王の軍を破った。覇者のさきがけといっていい人物。
武姜
武公の夫人。申候の娘。武は夫の諡、姜は生国申の姓。武公に嫁ぎ、寤生と段を生んだ。しかし、弟の段を溺愛し反乱の原因をつくった。
弟の段のことです。我が夫武公は段を共城に封じましたがあのような小城ではあまりにかわいそうです。せめて京城(現在の河南省滎陽市)に封じなさいな。
共叔段
鄭の公子。名は段。武公の子、母は武姜。別名京城の大叔。武姜に寵愛される。武公が亡くなると京に封じられ、次第に勢力を拡大、反乱を起こす。
え、京城ですか・・・確かにあの地は副都城で人口も多く、豊かな地だけど、しかし・・・
寤生よ、母の言うことが聞けないのですか?私はあなたをそのような親不孝に育てた覚えはありません!
・・・わかりました、でも手続きなどもあるので少し待っててね。
祭足
鄭の卿。字は仲足。祭仲とも呼ばれる。鄭の大夫で、後に卿となる。元は国境を守る番人(封人)であったが、荘公の寵愛を受け卿の位にまでのぼった。
殿下、お待ちください。京城は地広くして民多し。国に二君があってはなりません。ましてや武后(武姜)の魂胆は明らかでは・・・
段よ、そなたの兄上はこの度の転封を快く承諾したわけではない。いいですか、京城に入ったら兵を集めて機を待つのです。手引きもすれば内応もこの母が引き受けましょう。そなたを鄭の国君にしなければ母は死んでも瞑目できないのです。
こうして段は副都城の京城の城主になったわ。これ以降段は京城大叔と呼ばれるの。そうして20年ほど兵を整え、周辺を支配しようとしていたのだけどあるときに支配を拒否した都市を攻撃して陥落させたの。各都市の守将はあわてて新鄭に報告に向かったのよ。
・・・以上が事のあらましです。我々ではとても歯が立たずに逃げるしか・・・
公子呂
鄭の大夫。字は子封。桓公または武公の子。荘公に共叔段を討つよう進言し、共叔段が乱を起こすと兵を率いて京城を攻撃した。
いや、事態は明白です。段は日夜兵を訓練し法に反して領土を広げた。明らかな謀反であります。よって討つべし!
単なる勇み足でしょう。大叔は国母の子で寡人(王候の自称)の弟ですよ。
いえ、主公と段がご兄弟なのは存じています、しかし主公が段を赦しても段は主公を赦さないのでは・・・
言葉が過ぎるわよ、確固たる謀反の証拠が挙がったわけではないじゃないの。
まぁまぁ。お二方とも落ち着いてください。とりあえず今日はこれにてお開きということで・・・
ふと思い出したけど、そろそろ洛陽に参勤しなくてはならないわね。一月後の吉日に洛陽に向かう事にしましょう。
なんですって、寤生が洛陽へ向かう?これはチャンス、早速段に伝えねば。
一月後、新鄭を攻撃せよ。城門に内応準備完了を知らせる白の旗を上げる。
・・・よし、行け、城門を出たところで襲って密書はこちらに持ってくるのよ。
よし、ではこの偽手紙を届け、返書を受け取ってくるのです。これで向こうの動きは筒抜けですね・・・
そして京城では
ふむふむ、一月後か・・・よし、公孫滑よ、この財宝を持って北の衛国に兵を借りてきて。
公孫滑
鄭の公孫。共叔段の子。父に従い荘公と戦うが、敗れて衛に救援を求めた。子孫が鄭にいることから、その後許されて帰国したものと思われる
そして一月後
兄、荘公が洛陽へ参勤するため、私が留守居役を仰せつかった、総勢を率いて新鄭に向かう!
一方京城近辺では
ふふふ・・・こっちが兵を京城近くへ潜ませているとは気づいていないな。一気に京城を落とす!
た、大変です、京城が!
何?!京城が公子呂指揮下の軍に落とされた!?急いで反転、奪回するぞ!
そして共城
母上!私は一体母上に愛されたのか、呪われたのか?しかしいずれにしてもおさらばです!
なんということ!母上の所業とはかくなるものか。断じて黄泉に至るまで相見えないぞ。(死ぬまで会わないという意味)
そして新鄭では
なお、主公よりあなたを頴の地に送るようにと仰せつかっております。ご準備を。
一方衛へ向かった公孫滑は
何だって、既に父上は戦死された!? こうなれば衛君に頼んで兵を出してもらうか・・・
衛桓公よ、鄭荘公は我が叔父に当たる人物ですが我が父段を殺し、実母を幽閉する非道な人物です。どうか父の敵を討つために兵をお貸しください。
衛桓公
衛国第十三代君主。在位年は前734〜719年。名は完。衛荘公の子。
こうして衛軍が鄭に攻め込むことになったの。一方鄭の側では・・・
さて、諸君、衛軍が国境を越えたとの知らせがあったがいかがいたすべきかしら?
どうせ衛軍には大した戦意はありますまい。この機会に段の小倅を斬って禍根を絶つべきです。
いや、そこまでしなくとも衛君に書を送り真実を説明すれば兵を引き上げるでしょう。
これで鄭のお家騒動は一件落着したわ。ただ、その代わり洛陽の方で不穏な動きが出てきたの。もともと鄭荘公は父の後を継いで周の卿士に任じられていたんだけど全然洛陽に顔を出さなかったの。それで周平王は怒っていたわけね。
むう・・・なんで鄭伯(鄭の爵位は伯爵)は全然洛陽にこないのですか、いっそ罷免してしまいましょうか・・・
この手の噂はいつでもすぐ広まるのが面白いところね。そして卿士罷免の噂は鄭の都城新鄭まで届いたわ。
何ですって、この私を罷免する?どうせ名ばかりで大した仕事もないくせに!形ばかりの王朝の仰々しい職位なんて惜しくもないけど罷免とは何事!こっちから辞表をあの宜臼の小わっぱに叩きつけてやろうかしら?
周朝の「天子」をつかまえて小気味よく小わっぱなどと言われましたね。
でもその小わっぱの一挙手一投足に腹の虫が収まらないではどうしようもないでしょう。
殿下、ご安心ください。あの鎬京炎上以来周朝の権威と力は地に落ちております。つまりいまや周朝はただの一諸侯国に過ぎません。そんな権威は似非権威です。崩すのに造作もありません。
いえ、直截に言っています。天子の膝元から麦を刈り取って来ましょう。
こうして祭足は鄭軍を率いて周の街温邑まで略奪に出かけたんだぜ。
いえ、ちょっと鄭が凶作でね。少しばかり麦を借りようと思っただけよ。
こうして祭足は刈り取った麦を積んで悠々と新鄭に帰還したわ。しかも同じ年の秋に今度は洛陽城下から稲を刈り取って行ったの。周平王はこれに成すすべもなくこの冬に在位51年で没したわ。これ殆ど憤死に近いんじゃ・・・
ちなみに周平王の在位があんまり長かったせいで皇太子は既に死んでたりもするんだけどな。仕方がないから孫の姫林が王位を継いで周桓王を名乗ったぜ。
周桓王
東周王朝第二代君主。在位年は前719〜697年。名は林。平王の孫、洩父の子。父の洩父が亡くなったので、平王の太子(太孫)となる。往時の力を失ってしまった周王室の復権を望み、諸侯でありながら大いに力を振るう鄭の荘公を嫌い、繻葛において鄭と戦う。しかし、大敗して周王室の権威をさらに失墜させてしまった
なんか配役からして・・・いや、まぁ、いいか。
さて、そんなこんなでとりあえず鄭にはまた平穏な日々が戻ってきたの。
(・・・殿下はこのところひどく寂しそうに見えるわね。やはり実の母を幽閉したのを後悔しているのかしら)
潁考叔
鄭の大夫。前712年没。潁谷の封人。荘公と武姜を和解させ、孝子として称えられる。
それは良かった。あなたたちが頑張ってくれているおかげで都のものは安心出来るというものです。その功を称えるために宴を賜りましょう。・・・おや、なぜ焼肉を包んでいるのです?
いえ、我が家は貧乏しておりますので母にこのような香ばしい肉を食べてもらうことなど出来ません。それでせめて宮殿で宴を賜った光栄を母と分かち合おうと考えたのです。
・・・貴方はいい母を持って幸せね。しかし私はもう黄泉に至らずば相見えぬと誓ってしまったわ・・・
黄泉とはもともと地下の泉を指して言ったものです。今から水脈にぶつかるまでトンネルを掘り、そこへ降りてご母堂と再会すれば誓いを破ったことにはなりません。
こうして荘公と武姜は和解を果たしその後は仲のいい親子になったとの事よ。さらに、以前洛陽の権威に挑戦したことで東の大国「斉」の国君釐公が鄭と友好を結ぼうと動き始めたわ。これに荘公は応じて石門(山東省平陰県北部)で友好の血盟を結んだわ。ところが平穏な日々は長く続かずに・・・
北方の衛国が宋、魯、陳、蔡と連合してわが国に攻め込んできました!
さて、そんなところで萌える春秋戦国史2話はおしまい。
衛州吁
衛国第十四代君主。在位年は前719年。荘公の子。公子州吁。荘公の愛妾の子。荘公に特に可愛がられ、衛君の位を望む。
石厚
衛の大夫。前719年没。石碏の子。公子州吁と仲が良く、父に州吁と遊ぶことを禁じられるが聞き入れなかった。成人後も二人の関係は変わらず、州吁が位につくとその補佐をした。
宋殤公
宋国第十五代君主。在位年は前719〜710年。名は与夷。宣公の子。叔父の穆公の後を継いで即位した。しかし、宣公が見抜いた通り君主としての器量はあまり優れていなかったようである。在位10年で実に11回も戦争を行ったという。
公子馮
宋穆公の子。父の穆公が公子与夷に位を譲ったので鄭に出奔した。
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