萌える春秋戦国史「しゅん☆じゅう」 その5
とはいえSchoolDays最終回は放映されるべきである!
いや、ほら、前の日記にも書いたでしょ。抗議活動デスヨ抗議活動。
あー、あの話ね・・・って、でも今は萌える春秋戦国でしょ?この記事は基本萌えキャラ用よ。
鄭荘公
・・・でも魯隠公はなぜ殺されたの?彼は温厚な人柄で横暴なところは無かったはずなのに。
じつは先代の魯恵公にはもう一人可愛がっていた公子允という息子がいたのです。しかし恵公が亡くなった際公子允はまだ幼年だったので代わりに隠公が国君の座についたのですね。もちろん恵公は遺言で公子允が成年になれば必ず位を譲るよう言い渡し隠公もそのつもりだったようです。
えぇ、当人たちはそれでよかったのですが魯の卿である公子翬が隠公に取り入ろうとして公子允を除くよう進言したのです。もちろん隠公はこの意見を退けたのですが身の危険を感じた公子翬が公子允に讒言を行い、隠公を殺したようです。それにより公子允が魯桓公として即位しました。
魯桓公
魯国第十五代君主。在位年は前711〜694年。名は允。恵公の子・母は仲子。恵公が晩年にもうけた子で、母の仲子が寵愛されたため太子となる。隠公を殺した公子翬によって君に立てられた。
瑕叔盈
死んだものに義理を立てても仕方が無いでしょう。放っておけば?
高渠弥
いや、隠公暗殺の曲直を正すと証して出兵し、新君の魯桓公を脅していけば今後のことで何かと有利になるわ。
とはいえ魯桓公は脛に傷があるから神経過敏になっている。脅さなくても斉や我が鄭など隠公が友好を結んでいた国には頭を下げて挨拶に来るでしょう。
しかし、挨拶に来られてからではもはやその罪を問うことは出来ないわね・・・
周朝から魯国が拝領した「許田」の地を我が鄭がその昔拝領した「祊地」と交換したいと持ちかけてみましょう。
そうね、これは魯よりもむしろ周朝を怒らせるために必要なことだわ。例の王命詐称以来周桓王はわが国を非難し続けているけどそろそろどうにかして黙ってもらわないと。そのために周朝を挑発する必要がある。それに魯を巻き込めば我が鄭といやでも友好関係を保たなければならなくなるわ。
殿、魯国より魯桓公の使者が来られました。即位の挨拶がてら越邑(山東省曹県境)で会盟を行いたいとのことです。
こうして鄭荘公と魯桓公は越邑で「許田」と「祊地」の交換を果たしたわ。これで当然周桓王は怒るんだけど、その前にもうひとつ事件が起こったわ。
宋殤公は亡くなられました。今は貴方が継承権を持っておられます。
これより舞台は宋に移ります
孔父嘉
くっ、何とか戻ってこられたが・・・軍は殆ど壊滅状態か・・・
このままでは済ませません。軍を建て直し必ず鄭への報復を果します。
ん、大宰(首席大臣)の華父督じゃないの、どうしたの?
華父督
宋の卿。前682年没。名は督、字は華父。公子説の子。
お言葉ですが殿が即位されてから戦続きで国庫が逼迫しています。これ以上の戦は良くありません。
黙れ!わが国の受けた屈辱をこのままにしておけるか!戦費くらい何とかするように!
・・・まったく、孔父嘉の奴殤公の覚えがいいからってあっちこっちの国に戦争仕掛けて(殤公は在位中11回の戦争をしています)・・・戦費を調達するこっちの身にもなってほしいわ。しかも戦利品の分配は孔父嘉が握っているから戦に勝っても潤うのは彼の一族だけだし・・・何とかしないと・・・っ?!
ドン
あれ、ご存知なかったんですか?孔父嘉様の夫人、魏氏様ですよ。宋国一の美人として名高い方です。
ふーん・・・(聞きしに勝る美形ね、よし、私のものにしてみせる!)
さて、この怪文書を国中にばら撒くように。
孔父嘉はついに鄭国出兵を上奏して殤公の裁可を仰いだ。しかし華父督が猛烈に反対したことで殤公は裁可をためらっている。華父督は鄭に出兵すれば鄭と同盟している斉と魯に挟み撃たれて宋軍は全滅すると主張した。しかし孔父嘉はたとえ全滅しても鄭を討たねば宋の面目は立たず自分は気が治まらないと息巻いている。そのあげくにどうしても反対するなら殺す、と華父督を脅しつけた。さぁ、大変なことになったぞ。出征兵士は再び全滅し、今度は鄭が報復する。そうすれば宋都商丘に攻め込まれて城は焼き払われる。この危機を救えるのは華父督だけだ。彼に何とかしてもらわねば救われない。
その夜
いや、殿は司馬による暗殺を恐れておられる、お会いする事は出来ない。
そんなことはさせない、我々がお守りする。おい、誰か人数を集めて来い!
諸君らがあたら戦場で屍をさらすのが不憫で鄭国出兵を阻止しようとした。しかし、軍権は司馬の手にある。こうして諸君が私を護ってくれるのは涙が出るほどありがたいが逆に私は諸君らの無駄死にを救う事が出来ないのだ。残念至極で情けないが、出兵の裁可は明朝には下る。どうもがいても本職は司馬の妄動を止めることが出来そうに無い。どうか赦して欲しい・・・
孔父嘉の屋敷
さて・・・とはいえこのままでは殤公の怒りからは逃れられないわね・・・いっそのこと。
諸君、もともと国君の座には殤公ではなく先君の嫡子の公子馮がつくべきであった。公子馮を迎えて新しい国君とすれば諸君らは叛乱の罪に問われずに済む。
次の日
再び孔父嘉の屋敷
ふふ、これで一安心・・・早速鄭に公子馮を迎える使者を出すように。
こうして公子馮は宋に帰国して宋荘公として即位したわ。これ以降鄭と宋はしばらく平和になったわね。
美人目当てで国君が殺されるとは・・・なんちゅう時代だよ・・・
そして舞台は再び鄭へ移ります
どうやら桓王は血迷ったようね。桓王はかつて我らが王命を詐称したと怒っているようだけどこの際王命を詐称するなどというケチな真似なぞしないと言う証に王命を持って王と戦う事にしましょう。
まずは「代天伐罪」と書いた旗を作ってください。これは大諸侯が小諸侯を打つときに使う旗で、つまりは王命です。
これを使って諸侯に鄭の威信を示す事もありますが・・・今回は周桓王を怒らせて陣頭におびき出す作戦に使うのです。
一方周軍の方では
周桓王
東周王朝第二代君主。在位年は前719〜697年。名は林。平王の孫、洩父の子。父の洩父が亡くなったので、平王の太子(太孫)となる。往時の力を失ってしまった周王室の復権を望み、諸侯でありながら大いに力を振るう鄭の荘公を嫌い、繻葛において鄭と戦う。しかし、大敗して周王室の権威をさらに失墜させてしまった。
まったく、鄭荘公の奴事あるごとに周に逆らって・・・ま、それも今日まで。ボコボコにのしてやるわ!
周公黒肩
周の卿。前694年没。周公の子孫。周公旦の次子の子孫。周は采邑名で、周公旦の采邑の名称をそのまま使用していたという。周の桓公とも呼ばれる。
陛下、こちらの布陣は完了しましたが鄭軍は出て来る気配はありません。
駄目よ!必ず肘を狙うように。外れてもやむをえないけど絶対に頭と心臓だけは当てないように。
よし、敵は怯んだわ、まずは戦意の薄い両翼を叩く!全軍、前進!
そしてその夜、周軍の陣地
これはこれは陛下、ご機嫌麗しゅう。天子は天の子と申しますがやはり天のご加護があったのでしょう。実は陛下に矢を射掛けた男は百発百中の「神弓」と呼ばれて空飛ぶ鳥の目玉を射抜く事も出来ます。それが急所を外れて肘で済みましたのはまさに天のご加護としか・・・
陛下はお疲れです、早々にお引取りを願いたい。ただし、その前に一言伺いたい。鄭伯はあの不埒な射手をどう処分するつもりか?
それは伺っていないのでなんとも・・・ただ、処分のしようは無いと思います。あの「神弓」は自分が矢を射掛けた男は絶対に天子ではないと言い張っていましたので。天子たるものがあのようなブザマな姿で先陣を切るはずはないと。まったくその通りですわ。
ご立腹なさいますな、陛下、実は私も始めは同じように疑いました。天子は禁軍の近衛兵を率いて親征するのが礼だと教えられております。それゆえに雑兵をかき集めて我が鄭に侵入した軍勢を見たときはどこかの田舎諸侯が王命を詐称して起こした軍に違いないと思いました。
この戦いは後に繻葛の戦いと呼ばれるわ。これ以降ただでさえ落ち目だった周王朝の権威はさらに落ちる事になってしまうの。
なお、アイコンは以下のサイトから使用させていただきました。